耳読書とオタ活。消費させないインプット
早いものでまた1週間が終わり、休日がやってきました。
朝は簡単なパンを焼き、溜まった洗濯をして、休日らしい休日をスタートさせました。 最近、Audibleを契約し、Podcastだけでなく本も「耳」からインプットするようになりました。私には耳からのインプットが最も合っているようで、文字が滑らず、脳に直接ノンストレスで入ってくる感覚があります。
お昼に筋トレをこなし、午後は映画やアニメ、漫画鑑賞と、コンテンツを浴びる「オタ活」な1日でした。 世の中には本当に面白いコンテンツが溢れています。私は雑食なので大量のコンテンツを浴びていますが、これらを単なる「時間つぶしの消費」で終わらせず、自分の血肉として大事にしていきたいと常に思っています。
エッセンシャル労働の価値と、市場経済の複雑さ
最近、本を聴き(読み)進める中で、私の中にずっと引っかかっている言葉があります。
「社会的に意味のある仕事をやっている人は、稼げない」
『生殖記』などの朝井リョウ氏の小説や、酒井隆史氏の『ブルシット・ジョブの謎』などに共通して底流しているテーマです。
例えば、工事現場で働く人々、インフラを支える人々、そして農家。彼らがいなければ私たちの衣食住は成り立たず、世界は一瞬で崩壊します。間違いなく、社会的に極めて意味のある「エッセンシャル」な仕事です。
しかし現実の社会では、彼らの給料は決して高くありません。一方で、極端な話、明日いなくなったとしても世界は回っていくような仕事(コンサルタントや一部の金融・広告業など)の方が、決まって給料は高いのです。
なぜ、社会的価値と市場価値はこれほどまでにズレるのでしょうか? もちろん、理由は一つではありません。歴史的な権力構造、代替可能性(誰にでもできるか否か)、資本主義というシステムの構造的欠陥など、市場経済における価値決定のメカニズムは極めて複雑に絡み合っています。
消費者心理のバグと、農業マーケティングの壁
現場でビジネスを動かそうとしていると、その複雑な要因の一つとして、私たち自身の「偏った消費者心理」が決して無視できない重みを持っていることに気づきます。
人間は、生きていくために絶対に必要な、エッセンシャルなもの(毎日の食料や水、生活インフラ)に対しては、「1シリングでも、1円でも安く買いたい」とシビアになります。
最近話題になっている電気やガソリン価格、あるいは食材がその代表例です。
一方で、なくても生きていけるラグジュアリーなものや、自分のステータスを満たす娯楽・嗜好品に対しては、際限なくポンとお金を出す傾向があります。
先日、事務所に「色が七色に変わるスピーカー電球」売りの営業マンがやってきた時、普段「お金がない」と嘆いている同僚たちが、目を輝かせて即買いしていました。
街を見渡せば、金色のいかつい腕時計を誇らしげにつけている人や、いつもピカピカの靴、派手な洋服を身につけている若者をよく見かけます。彼らは、日々の生活費は切り詰めても、「目に見えるステータスや娯楽(ラグジュアリー)」に対してはお金を惜しまないのです。
農家が貧しいのは、搾取の構造など様々な要因があります。しかし「必需品には安さを求め、モノや贅沢には金に糸目をつけない」という消費者心理がある限り、ただ愚直に「生活に不可欠な作物」を作り続けているだけでは、農家は永遠に市場で買い叩かれてしまいます。
だからこそ、私が今ケニアの農家と一緒にやろうとしているのは、彼らが作った作物をエッセンシャルの領域から抜け出させ、なんとか「嗜好品・付加価値」の文脈へ変換する戦いです。
今のケニアの一般層には、「食に対して贅沢を求める文化」が圧倒的に少ないという高い壁があります。だからこそ、高級なイチゴやマッシュルームをどうやって「買いたい理由」に結びつけるのか。ターゲットと文脈を慎重に選定し、彼らの作物を買い叩かれないポジションにデザインし直すこと。それが、部外者である私がここで果たすべきバリューなのだと思います。
「生活の基盤」と「ビジネス」のバランス
ただ、誤解してはいけないのは、「お金にならないからエッセンシャルな作物は無価値だ」というわけでは決してないということです。
メイズや豆といった日常の作物は、彼らの命と日々の食卓を繋ぐために絶対に必要なものであり、そこには市場価格では測れない確かな「社会的価値」があります。極論を言えば、お金が全くなくても、自分たちで食べる野菜をすべて育てていれば生きていける。その「自給自足」の強さこそが、本来の農家の最大の強みでもあります。
だからこそ重要なのは、その「バランス」だと思います。自分たちの命を繋ぐための生活の基盤をしっかりと守りながら、一部で現金を稼ぐための付加価値の高い作物(ビジネスの武器)を持つ。
市場経済のゲームに全振りして足元をすくわれるのではなく、生活の地盤を固めた上で市場をハックする。その両立を探ることこそが、今私が目指している「豊かさ」への道です。
非効率な営みから見える、主婦と「生活」の価値
そんなマクロな市場の力学や、生活とビジネスのバランスに思いを馳せながら、今、ケニアの片田舎で休日の時間を過ごしています。
ここ1〜2週間、私の生活は「忙しさ」とはかけ離れたところにあります。 自分のペースで進められる協力隊の活動において、「暇」というのは実は結構キツいものです。動いていないと、自分が社会から切り離されたような不安(社会との関係性を保ちたいという欲求)に襲われます。
だから私は今、料理も洗濯も、あえてものすごく時間をかけて行っています。
手でシーツを一枚一枚絞り、時間をかけてパンを一から作ったり、スパイスを炒めてカレーを作ったりする。そこに生産性はありません。日本にいた頃のように「いかに時短して、効率化させるか」なんてことは微塵も思いません。
でも、あえてこの「非効率な時間」を過ごしてみて、強烈に気づかされたことがあります。
それは、毎日家族のためにこれと同じ食事作りや洗濯をこなしている「主婦(家事労働)」が、市場において「無給」とされ評価されていないこと。あるいは、ここケニアで家事全般を担う「お手伝いさん」の給料が驚くほど安いことの異常さです。
自らの手で時間をかけて「生活」を作ってみれば分かります。これらは命と日常を根底で支える、最も尊くてエッセンシャルな重労働です。 それなのに、「市場価値」という単一の物差しにかけられた途端に、不当に買い叩かれ、評価されなくなってしまう。この社会の歪な構造には、やはり強烈な恐ろしさを覚えます。
現代の科学技術やAIの進化を考えれば、大半の人が大して働かなくても、社会は十分に回っていくはずです。 それなのに、命を支える家事労働が軽視され、私たちは休むことなく自ら「仕事のための仕事(ブルシット・ジョブ)」を生み出し、市場価値を求めて働き続けることを選びます。
それは、「拡張し続けること」しかできない資本主義の病理のせいなのか。
それとも、「誰かに必要とされていないと生きられない」という人間の業なのか。
私があえて時間をかけて行う手洗いの洗濯や料理は、誰の欲望を刺激するわけでもないし、1円の稼ぎ(市場価値)にもなりません。でも、この市場から完全に切り離された「生活のための仕事」は、今日を生きる私にとって、絶対に必要な価値なのです。
効率化を手放し、時間をかけてパンを焼き、本を聴きながら洗濯を干す。
社会と市場の複雑で歪な構造を頭の片隅で転がしながら、目の前の「生活」の重みを丁寧に味わい尽くす、ケニアでの休日です。


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