なんとか菌床作りまでたどり着く
昨日約束していたとおり、朝イチでバガス(サトウキビの搾りかす)を取りに行きました。
まだまだ日が出てまもない、朝7時過ぎに家を出て、農家さんと一緒に回収場所へ向かいます。
ちゃんと時間を守ってくれたので助かりました。
若者たちがどこかからバガスを回収してくるらしく、こちらは袋を預けて待つことに。
「30分待って」と言われたものの、結局1時間半ほど待つことになりました。
それでも、なんとか必要な量を調達できました。
おかげで今日は、きのこの菌床づくりに取りかかれました。
作業には、1件目の農家さんの息子さんが手伝いに来てくれました。
作業を一緒に進めるだけでなく、全体を見ながら監督もしてくれます。前回はかなり失敗してしまったので、今回は自分一人で進めるのが少し怖かったのですが、経験のある人がそばにいてくれるのは本当にありがたいです。
午後からは同僚も合流し、みんなで作業を続けました。
その後は滅菌作業です。
予定では4時間ほどのはずだったのですが、同僚が「8時間だよ」と言い始めました。
どうやら、私の説明よりも彼女の認識の方が信頼されているらしいです。
私の声は誰も信じてくれない…
仕方ないのでトレーナーに電話し、4時間であることを同僚に伝えてもらいました。
こういうところの信頼は、まだまだです。

安全を守るために、どこまで止めるのか
ところで、近々旅行を計画しています。
その話を同僚にしたところ、止められてしまいました。
理由はエボラが怖いからです。
気持ちは分かります。感染症が心配になるのは当然ですし、何も考えずに出かければいいという話でもありません。渡航先の状況や感染リスクを確認する必要はあります。
ただ、なんとなく納得できない。
この感覚を考えていたとき、以前読んだ國分功一郎さんや磯野真穂さんの、コロナ禍をめぐる議論を思い出しました。
國分さんは、イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンの問題提起を手がかりに、コロナ禍における移動の自由の制限について考えています。
アガンベンが問いかけたのは、感染を防ぎ、生き延びることを最優先にするあまり、私たちが人間として大切にしてきたものまで簡単に手放してしまってよいのか、ということでした。
例えば、感染防止のために葬儀が行われず、死者を悼む機会さえ失われていきました。もちろん感染を防ぐ必要性は理解できます。しかし、生きている人の安全を守るためなら、死者への敬意や別れの時間は犠牲にしてもよいのでしょうか。
そして、もう一つが移動の自由です。
國分さんが紹介するのは、移動の自由は単なる外出や旅行の自由ではなく、人間が他者や制度から距離を取り、自分の生き方を選ぶための根本的な自由だという考え方です。
人を支配するには、その人が自由に動けないようにすればよいのです。
どこかへ逃げることも、別の場所で生活を始めることもできなくなれば、その人の選択肢は大きく狭まります。
だからこそ、移動の自由を制限することは、単に行動範囲を狭めるだけではありません。
人を管理し、支配するための条件にもなり得ます。
もちろん、國分さんがアガンベンの主張をすべて肯定しているということではありません。
感染症対策が必要な局面はあります。それでも、安全という目的のために、どの自由をどこまで制限してよいのか。その問いを簡単に手放してはいけない、ということだと思います。
一方、磯野真穂さんは医療人類学の立場から、コロナ禍における人々の行動や社会の反応を分析しています。
特に興味深いのが「県外リスク」という考え方です。
コロナ禍では、県をまたいで移動することが危険視されました。
しかし、ウイルスそのものが県境を認識しているわけではありません。もちろん、人が移動すれば接触する相手や感染の広がり方が変わる可能性はあります。問題は、県境を越えるという行為そのものが、いつの間にか「危険な行動」として扱われていったことです。
磯野さんは、行政が引いた県境という線が、人々の身体感覚にまで入り込んでいく過程を考察しています。
県外へ出る人は、周囲のことを考えない人。不要不急の移動をする無責任な人。そんなイメージが広がり、感染リスクの話が、いつしか人間の道徳や責任を問う話に変わっていきました。
本来、感染症のリスクは、流行状況や接触の仕方など具体的な条件から考える必要があります。それが「県外に出たかどうか」という分かりやすい線引きに置き換わると、個々の事情を考える余地がなくなってしまいます。
もう一つ、磯野さんが問題にしていたのが、コロナ禍で繰り返された「命か、経済か」という二項対立です。
医療を守り、命を守るためには、経済活動や日常生活を止めることも仕方がない。
そんな空気が広がっていきました。
しかし、ここで見落とされていたのは、暮らしそのものが命を支えているということです。
人と話すこと、一緒に食事をすること、歌うこと、踊ること。
こうした営みは、単なる娯楽でも、生活に余裕がある人だけの贅沢でもありません。
病院や医療制度よりもずっと昔から、人間の生活を支えてきたものでもあります。
命を守ることと、暮らしを続けることは、本来切り離せるものではありません。
それなのに、感染しないこと、生物学的に生き延びることだけが「命を守ること」とされ、それ以外の営みが「不要不急」に分類されていきます。
そこに磯野さんは違和感を抱いていました。
「不要不急」は誰が決めるのか
もちろん、エボラへの警戒をコロナ禍の議論だけで片付けることはできません。
感染症ごとに特徴は違いますし、実際の流行状況や渡航先の情報を確認した上で判断する必要があります。
同僚が心配してくれる気持ちも分かります。
それでも…
何が本当に危険なのか。どの程度のリスクがあるのか。どんな対策ができるのか。
そうしたことを一つずつ考えた上で、自分で判断したい。
安全を守ることは大切です。
ただ、安全を理由に何かを止めるときには、何を守るために、何を犠牲にしているのかも考えなければなりません。
移動することも、人と会うことも、何かを経験することも、ただ生き延びるためだけに生きているわけではない人間にとって、大切な営みだから。
そして、今回のことをきっかけに、コロナ禍をもう一度振り返ることも大切だと感じました。
あれだけ大きな社会的変化が起きたにもかかわらず、当時のさまざまな施策や、それによって生まれた社会現象について、どれほど検証や議論が続けられているのでしょうか。
もちろん、専門家や研究者による分析はあります。
ただ、そうした議論が社会全体に十分共有されているかというと、疑問も残ります。
過去の対応を単純に正解か間違いかで判断するのではなく、何が起きていたのか、何を守ろうとして、何を失ったのか。そして、そこから何を学べるのか。
次に同じような状況に直面したとき、ただ不安や空気に流されるのではなく、自分の頭で考え、判断できるようにしておきたいと思います。
「不要不急」とは、いったい誰が決めるのか。