【ケニア派遣305日目】主審襲撃のニュースと外からの正論。暴動の裏にある構造を見る責任

ケニア派遣305日目。連日の疲労から外に出ず、家の中で資料作成や名刺整理、収支管理に没頭。何も動かないのにストップをかけてくる現地の摩擦を「これもケニアで働くこと」と受け止めつつ、ナイロビのサッカー1部昇格戦で起きた主審襲撃事件を考察。外から一方的に非難するのではなく、選手の経済的死活やベッティング、スタジアム環境といった「背景の構造」まで見つめる視点の大切さを綴ります。

画面の光と部屋の静まり、溜まったタスクを片付ける一日

連日のフィールドワークやミーティングの疲労がずっしりと身体に残っていたため、今日は外に出ず、誰にも会わないと決めて家の中で過ごしました。

机の前に座り、溜まりに溜まっていたタスクを順番に片付けていきます。
来月に控えるファーマーズマーケットや農家向けトレーニングに向けた資料作成、各方面のステークホルダーへの細かな連絡。ここ最近の収支データの入力や、交換した名刺の整理など。

外を歩き回る日とは全く異なり、一日中ディスプレイを凝視していたため、夕方になる頃には目がチカチカとし、脳がブルーライトに焼かれたような重たい疲れが全身を覆っていました。それでも、滞っていたデスクワークを一気に前へ進められよかったです。今後も継続的に、平日、1日くらいこういう日を取ってもいいかもしれません。

ただ、画面越しに連絡をやり取りしているだけでも、現地特有のストレスフルな摩擦は顔を出してきます。

自分では何一つ手を動かさないくせに、こちらが進めようとすると横から口を挟んでストップをかけようとしてくる人。前々から念を押してお願いしていたはずの段取りを、完全に忘れて放置している人。

どうして自分から動かないのに、人の足だけは引っ張ろうとするのだろう…

メッセージのやり取りを見つめながら、ため息が出そうになる瞬間もあります。しかし、この手の理不尽や足踏みも含めて、「ケニアの現場で働く」ということの生々しいリアルです。苛立ちに呑まれて足を止めるのではなく、そういう不条理を前提として織り込みながら、いかに自分のペースを乱さずにタスクを前に押し出していくか。それもまた、この地で身につけるべきタフさなのだと、自分に言い聞かせています。

ケニアサッカーの主審襲撃と、沸き起こる非難の声

そんな作業の合間、スマートフォンの画面に流れてきたケニア国内のニュースに、思わず目が留まりました。

首都ナイロビで開催されていた、サッカーの1部リーグへの昇格をかけた重要な入れ替え戦。試合の後半、アウェーチームにPKが与えられた判定をきっかけに、判定に激怒した選手や観客たちがピッチへ乱入し、主審を激しく襲撃してスタジアムから追い出し、試合がそのまま中止に追い込まれたという事件です。

当然ながら、審判に対して暴力を振るうなど、スポーツの現場において絶対にあってはならない愚行です。いかなる理由があろうとも、暴力による抗議が正当化される余地など1ミリも存在しません。ケニア国内の世論を見ても、「国の恥だ」「野蛮すぎる」と厳しい非難の声が殺到しています。国内のサッカーファン自身がこの暴挙に対してまっとうに怒り、自浄作用を働かせようとしている空気には、一人のサッカー好きとして少しホッとさせられました。

外からの「正論」と、現場に横たわる過酷な構造

主審への襲撃は完全に悪であり、間違っている。 それは紛れもない事実です。

しかし、日本や欧州のような整備された環境、豊かな経済基盤の上に立っている外側の人間が、この出来事の表面だけを切り取って、「これだからアフリカは野蛮だ」「民度が低い」と上から目線で一方的に断罪して終わりにしてしまって、本当にいいのだろうか。

ここケニアにおいて、サッカーの「1部リーグ昇格」が意味する重みは、先進国のプロスポーツのそれとは話が異なります。2部リーグの選手たちの多くは、十分な給料すら支払われず、日々の生活すら困窮する過酷な環境でボールを蹴っています。1部へ昇格できるかどうかは、彼らにとって単なる勝敗や名誉の話ではなく、来月から家族にご飯を食べさせられるか、プロとしてのキャリアと生活を維持できるかという、文字通り「人生の死活問題」なのです。その極限のプレッシャーの中で、不可解に見えたPK判定一つで目の前の未来が断たれそうになった瞬間、理性のタガが外れてしまう選手たちの切迫感を、完全に無視することはできません。

さらに、観客席の熱狂の裏には、生活費を削ってまで勝敗に金を賭けている「スポーツベッティング」の影が濃く落ちています。なけなしの金を賭けてピッチを見つめる人々。彼らにとって、贔屓チームの勝利は自らの生存に直結するギャンブルそのものです。そこに加えて、観客席とピッチを隔てるフェンスすら存在せず、誰でも簡単にグラウンドへ雪崩れ込めてしまう脆弱なスタジアム設備や警備体制の不備。

選手の切実な生活難、観客を駆り立てるギャンブルの狂気、そして未成熟なインフラ。
それらの歪な要素が複雑に絡み合った結果として、「主審襲撃」という最悪の爆発が引き起こされたのではないでしょうか。

背景と構造を見つめること。海外の出来事に向き合う責任

絶対にやってはいけないことが存在するのは間違いありません。
ただ、人間が引き起こすあらゆる行動には、必ずそう至らざるを得なかった背景や、その行動を促してしまう社会の「構造」が存在しています。

戦争だって、誰かが「人を殺したいから」という快楽で始めるわけではありません。
そこには資源の奪い合い、歴史的な遺恨、自国の安全保障への恐怖といった、逃れられない構造の摩擦が存在しています。
街でグレて荒れている少年たちだって、生まれつきグレたくてグレているわけではありません。貧困、家庭の崩壊、教育からの疎外といった過酷な環境に追い詰められた結果として、その生き方しか選べなかったという背景を背負っていることがほとんどです。

物事の表面に現れた「現象」だけを見て、善悪のラベルを貼り、正義の側から石を投げつけることはとても簡単です。しかし、その奥底に横たわっている個人の背景や、社会の構造的な歪みにまで目を凝らさなければ、何も理解したことにはなりません。

特に、文化も常識も異なる環境のニュースに触れるとき。
自分たちの安全で恵まれたものさしだけで他者を裁いてしまえば、偏見と傲慢さだけが手元に残ってしまいます。

なぜ、彼らはあそこまで追い詰められてしまったのか。
何が、彼らにあの愚かな選択を取らせてしまったのか。

その背景にある痛みや不条理の構造まで含めて、想像力を巡らせること。
それが、異国の地に立ち、彼らと同じ空気を吸って暮らしている私が思う、大事な視点だと感じます。

トマトとバジルの洋風おからハンバーグ。
びっくりするくらいお通じが良くなってしまいました。(お腹は痛くない。)