ないなら作る生活と、自家製ソイミルクの完敗
朝。マグカップに淹れたソイカフェを口に含みました。
ここ最近のケニア国内は、深刻な降雨不足による飼料難がたたり、全国的な牛乳不足に喘いでいます。
カカメガタウンのスーパーの棚からも牛乳のパックが綺麗さっぱり姿を消しており、マトゥングの朝のマーケットでも手に入りにくい日が増えてきました。
牛乳がないなら、大豆から作ってみればいい。
そう思い立ち、手元の大豆をすり潰して煮出し、自分の手でソイミルクを作ってみました。
出来上がったミルクの味はといえば、日本で市販されている調整豆乳のおいしさには遠く、遠く及びませんでした。
青臭さがわずかに残り、苦笑いせざるを得ないクオリティです。やっぱり、牛乳がいいなと思います。
ただ、作るプロセスそのものはとてもシンプルでした。
ケニアで暮らしていると、欲しいものや足りないものが日常のいたる所に転がっています。
日本であれば「店に売っていないなら諦める」か「ネットで探す」で終わっていたはずの場面で、ここでは「とりあえず自分で作ってみようか」という発想が自然に頭に浮かんできます。
時間があることも理由の一つですが、何より、目の前で壊れた機械を自分の手で直し、道具を自作してしまう逞しいケニア人たちの姿を見ている影響が大きいと思います。
思いついては色々な実験に手を出し、そのうちの80%くらいは失敗に終わっています。
それでも、足りない余白を自分の手先で埋めようと試行錯誤する時間はすごく楽しく、生活が豊かな気がします。

5時間の火の番と、「時間を無駄にする力」
日中は、昨日仕込んだキノコ培地を高温で蒸し上げる滅菌作業に取り組みました。
ドラム缶の下に薪をくべ、火を絶やさないようにひたすら見張り続ける作業です。
時計の針を確認しながら薪を足し、煙に目をシパシパさせながら火加減を調整する。
その拘束時間は、実に5時間。
さすがに長い。体の芯まで煙の匂いが染みつき、全身がずっしりとくたびれました。
途中で他の片付けや別の作業を挟んでみても、火の番の終わりはなかなか見えてきません。
ただ、ふと我に返った時、日本にいた頃と比べて何もしていない待ち時間の体感スピードがずいぶんと早くなっていることに気づきました。
スマホをいじるわけでもなく、ただ薪がパチパチと爆ぜるのを眺め、お湯が沸騰する音を聞きながら時間が過ぎるのを待つ。
かつての自分であれば、10分もじっと座っていられず、生産性がない焦燥感に苛まれていたはずです。
それが今では、数時間の空白を淡々とやり過ごすことができている。
悪く言えば「時間を無駄にする力」が身についたのかもしれません。
良く言えば、思い通りにいかない状況をそのまま受け止める「我慢力」、あるいは時間に対する心の器が広がったのだと思います。

イギリス産業革命の時に工場労働者が栄養補給に飲んでいた。とどこかで読んだ気がする。
私の小説が面白くない理由と、「他人に興味がない」私の寂しさ
煙の合間の長い待ち時間、本を読んでいたのですが、少し落ち込み、本を閉じてしまいました。
プロの作家が描き出す「人間の感情の解像度の高さ」に圧倒されてしまったからです。 活字の向こうにいる登場人物たちの感情の揺らぎや、言葉にならない心理の機微が、恐ろしいほどの深さで鮮やかに浮かび上がってくる。
その鮮烈な人間描写を見つめながら、最近自分が少しずつ書き進めている自作の小説のことを思い出して、頭を抱えたくなりました。
私が書き進めている物語、本当に、致命的に面白くないのです。
誰に見せることもなく、おそらくこのまま引き出しの奥底でお蔵入りになるでしょう。
なぜ、自分の書く物語はこれほどまでに薄っぺらく、退屈なのだろうか。
立ち上る煙を見つめながら自問自答を重ねるうちに、ひとつの答えに行き当たりました。
私自身の知っている生身の人間の幅が狭く、その深さがあまりにも浅いからだ、と。
自分の内面にある葛藤や自意識のことは、嫌になるほどよく知っています。
映画や漫画、小説といったフィクションを人並み以上に消費してきたので、物語の中の類型化されたキャラクターの動かし方も頭では理解できます。
しかし、身の回りにいる生身の知り合いや友だちの心の奥底を、私はほとんど知りません。
知ろうとしてこなかった、という方が正確です。昔から他人にあまり強い興味を持てず、深い関わりをどこか避けてきた部分がありました。友だちも少ない。他人に興味を持たないまま、自分の内側の世界ばかりで過ごしてきたツケです。
「自分って、随分と寂しいやつだな……」
自分の人間的な器の薄さに直面し、胸の奥がチクリと痛みました。
他者への関心を怠り、自分の内側の世界ばかりを耕してきたからこそ、自分の書く物語の登場人物にも血が通わない。
記号としての人間は並べられても、生身の人間の温度や不器用な息遣いを描くことができないのかもしれないです。
小説をうまく書くため、という技術的な話だけではありません。
一人の人間としてもっと深みのある大人になるためにも、これからはもう少し、目の前の他者に興味を持ち、人を知る努力を重ねていく必要があると感じました。
他人の喜びや怒り、ふとした瞬間にこぼれ落ちる本音に、もっと丁寧に耳を澄ませてみること。
火を落とし、冷めていくドラム缶を見届けながら、自分の足元にある課題をひとつ拾い上げたような1日でした。
明日は、滅菌を終えた培地に種菌を植え付ける植菌の工程へ進みます。
目の前の作業に手を動かしながら、現場に集まる人々の表情や言葉の端々を、これまでよりも少しだけ意識して見つめてみようと思います。
