AIエージェントのマルチタスクと、カカメガの渋滞レジ
午前中は部屋にこもり、PC作業に集中しました。
取り組んだのは、奨学金支援組織「KESTES」の事務作業や、パートナー農家さんのWebサイト制作など。
AIにアイデアの壁打ちや設計の相談を投げかけながら作業を進めるスタイルがすっかり定着してきました。エージェントにコードや構成案を出力させている間に、自分は別のタスクに手を動かす。複数の思考プロセスを並行して走らせるマルチタスクを続けていると、脳みそが過熱してバグりそうになる瞬間があります。
ただ、アイデアと問いの立て方さえ持っていれば、専門知識がなくても何でも形にできてしまう。テクノロジーの進化がもたらしてくれた利便性の高さには、改めて圧倒されます。
午後からは、カカメガのタウンへと向かいました。
新しくカカメガにやってきた隊員の「Welcom & Happy Birthday」の食事会に参加するためです。
用事を済ませるためにスーパーへ立ち寄りましたが、歩きながらつくづく思います。普段暮らしているマトゥングの田舎に比べると、タウンには本当に何でも揃っています。
その分、人の数も圧倒的に多い。
買い物を終えてレジに並んだものの、列が一向に進みません。キャッシャーの手際がマイペースなのか、あるいは客の一人ひとりがカゴから溢れんばかりに大量の商品を買い込んでいるのか。結局、会計を済ませるためだけに15分近く列の中で立ち尽くすことになりました。
急ぐ用事があるわけではありませんが、この非効率な待ち時間は、地方都市ならではの洗礼です。
週1シャワーの妥協と、「見られている」緊張感の不在
レジの列でぼんやりと順番を待ちながら、ふと視線を落とすと、自分の足元が目に入りました。
日々の畑仕事からそのまま出てきた私の靴は、土の埃でお世辞にも綺麗とは言えない状態でした。
ところが、周囲に並ぶケニア人たちの足元を見渡すと、どれもピカピカに磨き上げられ輝いていました。
道路のあちこちに土のぬかるみや深い砂埃があるこの環境で。
彼らは出かける前に丁寧に靴を拭き、街角のシューシャイン(靴磨き屋)に足を乗せ、身なりをきっちりと整えてタウンへと繰り出してきます。
その光景を前にして、とても情けなく、恥ずかしい気持ちになりました。
そして、最近自分の中で考えていた「緊張感」や「ストレス」の効用について思考を巡らせることになりました。
・・・先日、近所でよく立ち話をするケニア人男性との何気ない雑談のことです。
ふとした会話の流れで、私が「断水もあるし、普段はシャワーなんて週に1回くらいしか浴びないよ」と口にしたところ、彼は目を丸くして驚愕していました。
「信じられない。俺は毎日、1日2回は必ず水を浴びて体を清潔にしているぞ。家に帰れば奥さんも子どももいるからね。お前だって、素敵なパートナーができれば絶対に変わるはずだ」
彼のその言葉を聞いたとき、ぐうの音も出ないほど納得してしまいました。
まさに、その通りです。
今の私の頭のどこかには、「まあ、周りにいるのはケニア人だし、多少小汚くても誰も気にしないだろう」という甘えと妥協があります。
日本にいた頃であれば、仮に特定のパートナーがいなかったとしても、周囲の目という見えない「緊張感」が常に働いていました。だからこそ、最低限の身だしなみを整え、髪をセットし、清潔感を保とうと意識していたはずです。
しかし、この異国の地で、たった一人で暮らしていると、外からの視線を意識する機会がすっぽりと抜け落ちてしまいます。その結果、あらゆることに対して「まあ、これでいいか」と基準を下げて妥協してしまう。
自分を磨き、整えるという行為の本質は、自分自身の内側に適度な「緊張感」を課すことに他なりません。
恋をしている人が急に垢抜けたり、メディアに出て人前に立つ人が見違えるように洗練されていくのも、根底にはこの「誰かに見られている」という強い意識が作用しているからなのでしょう。
客観的な視線というプレッシャーを失った環境は、人をどこまでも怠惰にさせてしまう危険を孕んでいます。
側溝と停電が奪う「脳死」――面倒くささの裏にある生活実感
社会的な視線の緊張感から解放されている一方で、ケニアでの暮らしには、日本とは全くベクトルの異なる緊張感が日常のいたる所に張り巡らされています。
移動しようとすれば、バスは定刻通りに来ず、乗車してもいつ発車するかわからない。部屋にいれば、予告もなく電気が消え、蛇口からは水が出なくなる。市場を歩けば、当たり前のように足元を見られて相場以上の価格をふっかけられる。そして道路の端には、底の深い剥き出しの側溝が口を開けており、少しでも油断して視線を外せば、真っ逆さまに転落して大怪我をしかねない。
生きる上での難易度としては、本当に厄介で、面倒なことばかりです。
ただ、この不安定な環境がもたらす緊張感は、日々の生活にメリハリを与えてくれているようにも思えます。
何一つトラブルが起きず、すべてが予定調和で完結する快適な社会では、人間は思考を止めて「脳死」の状態で安全に生きていくことができます。
しかし、ここケニアでは、脳死で生きることは許されません。
常に五感を研ぎ澄ませて周囲を観察し、状況を予測し、おかしな理不尽に対しては即座に声を上げて自分の身を守る必要がある。 頭と身体をフル稼働させて、一つひとつの瞬間に判断を下さなければ、あっという間にトラブルに飲み込まれてしまいます。
面倒くさい。疲れる。
でも、その摩擦があるからこそ、自分が確かに「今、この世界を生きている」という手触り、生々しい生活実感が手の中に残るように思います。
快適さと引き換えに失われていく感覚を、この環境が力づくで呼び覚ましてくれているのかもしれません。
タウンでの買い物を終え、新しくやってきた仲間たちとテーブルを囲んで笑い合いました。
適度な緊張感を自分に与え直して、身だしなみと生活の基準を少しだけ引き締めること。
そして、この土地ならではのストレスを、生きている面白さとして味わい尽くすこと。
騒がしい街の熱気を肌に感じながら、色々考えた1日でした。
