「ない」だらけのランチと、iPhoneを持つ人々
今日は気分転換を兼ねて、カカメガのタウンで買い物と食事をしました。
お腹が空いたので街のレストランに入り、メニューを開いて注文を試みました。
しかし、仕込み前の少し早い時間帯に入ってしまったせいか、何を頼んでも店員さんから「それはない」「今はない」と笑顔で返されてしまい、思わず笑ってしまいました。何一つ頼めない不便さすらも、この国ではなんだか可笑しなイベントに変わっていきます。
料理を待つ間、ふと店内に目を向けると、現地の人々の手元にiPhoneがあるのが目に入りました。
彼らは一体、どんな仕事をして生きている人たちなのだろう。
日本においてさえ、世界的なインフレに加え、円安が進みiPhoneはかなりの高級品です。Appleの最新の決算データを眺めてみても、高い粗利益率をしっかりと維持しており、その価格設定は世界中で高止まりしています。
そんな高価なプロダクトを、このケニアの地方都市で平然と使いこなしている人々が存在する。新興国のローカル社会の中に確実に存在する、富の偏在と経済のダイナミズムを目の当たりにした気がしました。
レストランを出た後は、スーパーで食材の買い出しをしまsした。
普段暮らしているマトゥングの周辺では、手に入る食材の種類がかなり限定されています。もちろん、その限られた食材の制約の中で「今夜は何を作ろうか」と知恵を絞り、献立を組み立てる作業も十分に楽しいものです。
ただ、こうしてバリエーション豊富な食材がずらりと並ぶスーパーを歩き、「何を作ろうか」と選択肢に迷うワクワク感は、やはり何物にも代えがたい高揚感を与えてくれます。
窓の外を見つめた10時間と、戦争への思索
カカメガからの帰り道、乗合バスの窓から流れる景色を眺めていました。
そして帰宅してからも、部屋の窓から広がる空をただ見つめていました。
気づけば、10時間近くもの間、私は窓の外の景色を目で追いながら、頭の中で「戦争」について思考を巡らせ、その思いをノートに文章として書き連ねていました。
毎年、8月のこの時期を迎えると、必ず立ち止まり、今の自分が感じていることや考えていることを文章にまとめるようにしています。
大学時代、政治学科に身を置き、平和学や国際政治の講義を熱心に受講していました。 画面越しに届く戦争の凄惨さ、歴史の文脈、国家と暴力の関係性。そうした学問的な興味と、自分の肉体が今まさにアフリカの地に置かれている現実が交差するなかで、私の中には常に言葉にしたい問いが溢れ出してきます。
なぜ人は争うのか。
極限状態において人間の尊厳はどう保たれるのか。
窓の外の景色は、カカメガタウンのコンクリートからマトゥングの緑の樹々へとゆっくり移り変わっていきましたが、私の中の思考は、何時間経っても途切れることがありませんでした。
アフリカの地に立ち、日本の魂を思う
地球の反対側、アフリカのケニアという遠く離れた国で日々を送っている。
しかし、どれほどこの地の暮らしに適応し、スワヒリ語を話し、ローカルな食事に馴染んだとしても、自分の根底にある魂は、どこまでも日本にあります。
日本で大きな災害が起きたとき。
あるいは、8月のように歴史的・社会的に日本にとって極めて大切な節目を迎えたとき。
無関心でいることはできません。
画面やニュースを通じて現地の状況にしっかりとアクセスし、日本の歩んできた歴史や痛みに心を寄せ、学びを深め続けていきたいと考えています。
異国の地に身を置いているからこそ、自分がどこの国で生まれ、どのような文化や歴史の延長線上に立っているのかというアイデンティティが、より一層クリアに浮き彫りになっていきます。
自分自身の足元にある大和魂を、大切に抱きしめ続けること。
伝統や歴史に対して、学びと関心を止めないこと。
10時間の思索を終え、頭の中の言葉を綺麗に書き落とした夜。
明日からも、私という人間を形作るこの軸をぶらすことなく。
現場で、目の前にあることを丁寧に重ねていきます。

「バナナでも買っとけ!」と言う意味。20シリング程度の少額じゃどこにも送れないぞと言う意味。
ステッカーには「ボーッと座ってないで、隣の人とおしゃべりしな」と「ずるいことしたらこっちもやるぞ」。