解像度の高い平和へ ── 極端を超え、当事者性と構造分析を往還する81年目の視座

序章:ナイロビの街頭と「ヒロシマ・ナガサキ」 ── 当事者性の境界線

東アフリカ・ケニアの路上で、現地の人々に「日本人だ」と伝えると、親しみや尊敬を込めて返ってくる言葉の筆頭は「トヨタ、ホンダ、ヤマハ」といった製品名です。

発言の機会があれば、その次に多くの人々が口にするのが、「ヒロシマ・ナガサキ」というふたつの地名です。
その地名は、プレミアリーグが大人気であるこの国で、「三苫、富安」よりも有名です。

教科書で学び、テストのためにその単語を記憶したのでしょう。しかし、その名前を知ってはいても、そこで具体的にいつ、何が起き、どれほどの人間がどのような不条理の中で命を落としたのかまでをリアルに理解している人はごくわずかです。彼らにとってそれは、はるか遠くの異国で起きた歴史的記号に過ぎません。当事者ではない人々にとって、過去の惨禍が知識として風化していくのは避けがたい現実です。

しかし、ふと翻って私たち日本人自身はどうでしょうか。

8月6日、9日という日付を迎えるたび、私たちはメディアや教育を通じて原爆の惨状を学び、終末や滅びを描いた数々のエンターテインメントに触れて育ちます。歴史は心に刻まれているはずです。 しかし、81年という歳月が流れ、直接の体験者が世界から去りつつある現在、私たち自身にとってもまた、戦争や原爆の恐ろしさはどこか遠い時代の出来事として、無意識のうちに他人事化し始めているのではないでしょうか。

いま、中東をはじめ世界各地で戦争が起こり、原子力や核の威嚇が再び現実の国際政治の前面に躍り出ています。

この不透明な時代において、平和を語ることは時に「甘い理想論」と切り捨てられ、武力を語ることは「危険なタカ派」とラベル貼りされます。しかし、平和を維持するための議論を右か左かという単純な政治的イデオロギーに押し込めること自体が、思考停止ではないでしょうか。右や左という固定された二項対立で考えること自体がナンセンスであり、本来、人間の意見や現実はもっと多様で、グラデーションに満ちているはずです。

ここで、日本という国が置かれた立ち位置のポテンシャルについて改めて考えさせられます。

唯一の戦争被爆国として圧倒的な感情の熱量(当事者性)を歴史的に継承している一方で、現在進行形で過熱する世界各地の直接的な衝突の渦中からは、地理的・歴史的に一定の客観的な距離感を保ち得る絶妙なポジションに、私たちは立っています。

激情に飲み込まれて相手を悪魔化するのでもない、かといって他人事として冷笑するのでもない。
当事者としての強い痛みと熱量を胸に抱きながらも、客観的な構造分析を行える「中距離の視座」こそ、いま世界に対して日本が示し得る唯一無二の姿勢ではないでしょうか。

いま必要なのは、この感情の熱量と冷静な構造分析を往還させながら、極端に走らず、どうすればこの平和を壊さずに維持できるのかを多角的に掘り下げる視座です。

「原爆ドーム」in 広島県広島市。

第1章:悪魔の不在と構造の罠 ── なぜ「誰も望まない戦争」が起きるのか

世界で不穏な事態が起きるたび、私たちは「悪の指導者」や「特定の国家」にすべての原因を求めがちです。
トランプ大統領や習近平国家主席、あるいはかつてのヒトラーのような特定の独裁者の個人的な暴走によって世界が混乱に陥っているという見解は、理解しやすく分かりやすいストーリーを提供してくれます。

しかし、歴史の構造を客観的に紐解く歴史学や政治学、あるいは『COTEN RADIO』が提示するような構造分析の視点に立てば、現実はより複雑で残酷です。

歴史上、最初から世界を崩壊させようと望んで始まった戦争や独裁者は存在しません。

1914年の第1次世界大戦がそうであったように、各国のリーダーや外交官たちは自国の安全保障を第一に考え、同盟関係を守り、脅威に対する抑止力を高めようと合理的で正当な判断を積み重ねました。しかし、相互の不信感と安全保障のジレンマ──他国の純粋な防衛行動が自国への脅威にしか見えなくなる心理的・構造的ループ──が噛み合ってしまった結果、誰も望んでいなかった壊滅的な全土戦へと引きずり込まれていったのです。

戦争とは、単一の悪魔が起こすものではなく、人間集団が恐怖と不信の連鎖に陥ったときに作られてしまう「構造の罠」です。

この構造的理解を欠いたまま「あいつが悪い」「あの国が異常だ」と敵意を燃やすだけでは、不信の連鎖を加速させる燃料にしかなりません。右や左といった固定化されたレンズを一度外し、どのような構造が人間を集団的狂気へ追い込むのかを冷静に分析することが、平和研究や社会科学が果たすべき第一の役割です。

第2章:居酒屋のリアリズムと三島由紀夫の問い ── 防衛と理想主義のジレンマ

平和を論じる際、私たちが必ずぶつかるのがリアルな武力と防衛を巡るジレンマです。

かつて日本の居酒屋で隣り合わせた年配の男性から、こんな話を聞かされたことがあります。

「日本がノーベル平和賞を受賞したことや非核三原則を掲げ続けることは、見方を変えれば日本を軍事的に無力化し、安全保障をアメリカに全面的に依存させる口実になってきた。もし本当の有事が起きたとき、アメリカが自国の都市を犠牲にしてまで日本を核の傘で守ってくれる保証などどこにもない。私たちは見えないところで主権を侵略されているんだ」

この主張には一定の偏りや極端さが含まれているかもしれません。
しかし、現在の国際政治における厳しいリアリズムを前にしたとき、これを単なる妄言として一蹴することもできません。

昭和末期、三島由紀夫が自衛隊への決起を呼びかけ、独自の民兵組織を率いた背景にあったのも、憲法9条の下で自国の防衛と尊厳を他国に委ね、経済的繁栄だけに浸る日本に対する強い危機感と、理想と現実の乖離への葛藤でした。

もし隣人が襲われ、愛する人が暴力に晒されたとき、自らを防衛する力を持たないことはあまりにも切なく、過酷です。現実として世界各国で軍縮ではなく軍拡が進み、防衛力の強化が議論されている背景には、こうした力の空白が暴力を招くという現実主義的な計算が存在します。

しかし、どれほどリアリズムを重視するとしても、私たちは自問しなければなりません。

武力による抑止力を追求する果てに、かつて多くの先人たちの犠牲の上に勝ち取った民主主義や、言論・表現の自由、そして平和な日常そのものを破壊してしまっては、本末転倒ではないでしょうか。理想を語ることを「青臭い」と笑い、力による対立だけを信奉する世界は、あまりにも虚しく、危険です。

防衛という現実的な課題に向き合いながらも、なお戦争を回避するための理想を語り続けること。
この両端の緊張感を保持し続けることこそが、現代に生きる私たちに求められる思考の体力です。

第3章:カルチャーという抑止力 ── 「壊したくない世界」をつくるソフトパワー

では、武力や軍事バランス以外に、私たちが世界を繋ぎ止め、戦争を未然に防ぐための強力な手立てはあるのでしょうか。

その答えのひとつが、日本が誇るソフトパワーの持つ潜在力です。

映画『オッペンハイマー』が核開発の倫理的相克を提示し、『ゴジラ-1.0』が世界的な評価を受けたように、あるいは『この世界の片隅に』といった作品が国境を超えて核兵器や戦争の悲劇を可視化させたように、物語や映像には政治的な言葉を遥かに凌駕する感情的インパクトがあります。

しかし、ここで注目したいのは戦争を描いた直接的な作品だけではありません。

任天堂が世界中に届け続けるゲーム体験。
京都アニメーションが生み出す圧倒的な映像美。
国境や人種を超えて熱狂を生み出すONE PIECE。

これら世界中で愛されるカルチャーの本質的な価値は、単なる経済的コンテンツにとどまりません。
それらは国境を超えて「この文化を生み出す国や人々を滅ぼしたくない」「この物語の続きを、誰もが平和に読める世界であってほしい」という、言葉にできない愛着と共感を世界中に植え付けています。

「ひとつなぎの大秘宝」の正体が明かされないまま世界が終わるなんて、地球上の誰も望んでいないはずです。

ONE PIECEのオブジェ in 熊本。外国人の姿もあります。
アフリカでも、日本のアニメ関連のイベントがあります。

── 歴史の惨禍とソフトパワーの真価

しかしもちろん、ここで冷静な視点を忘れてはなりません。

歴史を振り返れば、文化や芸術が、剥き出しの暴力や国家権力の前に無力であった残酷なファクトが存在します。
第二次世界大戦期、ナチス・ドイツによって退廃芸術の烙印を押された多くのユダヤ人音楽家や美術家たちは迫害を受け虐殺され、あるいは住み慣れた故郷を追われてアメリカ等への亡命を余儀なくされました。
抗議や抵抗の音楽もまた、しばしば国家権力の武力や銃声によってかき消されてきました。

文化それ自体は、迫り来る爆撃機を直接撃ち落とすミサイルにはなり得ません。

しかし、かつての芸術と現代のグローバル・カルチャーの間には、無視できない構造的変化が存在します。

かつての芸術や音楽の多くは、国家の威信やナショナル・アイデンティティと強く結びつき、しばしば排外主義的なプロパガンダへとハックされやすい脆弱さを抱えていました。これに対し、現代のゲームやアニメ、漫画といったコンテンツは、国境を容易に飛び越え、相手国の市民の「日常の愛着」の中に直接溶け込みます。

ソフトパワーとは、相手を軍事的に威圧する力ではなく、その国や文化を好きにさせ、破壊することをためらわせる「情緒的抑止力」です。

誰しも、自分が心から愛している文化や企業、クリエイターが存在する街を爆撃したいとは思いません。
エンターテインメントやコンテンツに溢れる日常を守りたいという人々の素朴な欲望は、国家間の対立を根底で食い止めるための強固な防波堤になり得るはずです。

しかし、どれほど文化が国境を超えた愛着を生み出そうとも、現代の私たちが日常的に触れる情報環境そのものが歪んでいれば、その愛着は容易に上書きされ、一瞬にして敵意へと塗り替えられてしまいます。

愛着という感情の芽を育む一方で、なぜ私たちはこれほど簡単に他者や異文化を「悪魔化」してしまうのか。
その背景には、現代のテクノロジーがもたらす分断と、対象に対する解像度の欠如が存在します。

第4章:アルゴリズムによる分断と解像度の欠如 ── フィルターバブルを超えて現場へ立つ

この分断を引き起こし、世界に対する私たちの解像度を劇的に奪い去っている主犯
──それこそが、SNSや検索エンジンを支配する「アルゴリズム」の存在です。

現代のアルゴリズムは、ユーザーの過去の行動データや感情的な反応を解析し、心地よい情報や極端な言説だけを優先的に提示します。その結果、私たちは自分と同じ意見の中に閉じ込められ、見たい世界しか見えなくなるエコーチェンバー現象やフィルターバブルに陥っています。

「中国は敵だ」「アメリカは信用できない」「ムスリムは危険だ」「黒人は治安を乱す」──。

ニュースやSNS上で強調される一部の事件や極端な言説を繰り返し摂取することで、特定の人種や国、宗教に対する解像度は極端に低下し、単純化された偏見とヘイトが加速していきます。

しかし、ケニアという現地に身を置き、異文化の中で日々の生活を送っていると、そうしたネット上の単純な記号がいかに虚構であるかを痛感させられます。

例えば、イスラム教の人々がいかに敬虔で、信仰に真摯であり、見知らぬ外国人に温かい手を差し猛るか。
あるいは、どんな人種であれ、それぞれの中に誠実な人もいれば愚かな振る舞いをする人も同じ割合で存在するという当たり前の事実。
白人もアジア人も黒人も、表層のニュースが描くステレオタイプとはかけ離れた、複雑で愛おしい生を生きています。

解像度の低さは、恐怖を生みます。

そして恐怖は、攻撃性を生みます。

この時代において、私たちが偏見から脱却するためには、アルゴリズムが提供する心地よい画面から離れ、自分の足で歩き、自分の目で見て、自分の言葉で異文化の人々と対話するしかありません。

その意味において、JICA海外協力隊のように、若者が途上国や異文化の現場に身を置く試みには大きな意味があると思います。ボランティア一人ひとりが現地で残せる短期的・定量的な成果には限界やばらつきがあるかもしれません。

しかし、異文化の中で生活した人間が帰国し、日本社会の中に”解像度の高い視点”を持ち帰ること。
それ自体が、日本社会が内向きな偏見や過酷な狂気に陥ることを防ぐための「社会の抗体」となり、長期的な安全保障として機能するのではないでしょうか。

第5章:解像度を上げるアカデミアと、「殺し・殺されたくない」という

世界の解像度を上げるために、もうひとつ決定的に重要なのが「アカデミア」の存在です。

近年、東京大学をはじめとする日本の大学や研究機関が資金難や赤字に直面し、研究者の削減や人文・社会科学系ポストの縮小が懸念されるニュースが報じられています。しかし、目先の経済的利益や定量的成果だけを追求し、基礎研究や社会科学、歴史学、平和学への投資を怠ることは、自国の精神的基盤と外交的知性を自ら削ぎ落とす愚行です。

昨今のホルムズ海峡ショックが突きつけたように、日本という国が一国だけで完結して生きることは到底不可能です。食料自給率もエネルギー自給率も極めて低い日本において、世界の解像度を下げることは自滅行為に他なりません。もし完全な自給自足や鎖国を選ぶなら、どれほどの犠牲と社会構造の転換が必要になるか冷静に考えるべきです。

複雑化する国際情勢や異文化の歴史的文脈を正しく理解する知性が失われれば、国は容易にポピュリズムや極端な世論に流され、排外主義へと傾斜していきます。

そして、こうした客観的な構造分析や歴史の解像度を積み上げた上で、私たちが最後に行き着くのは、シンプルで切実な個人としての感情です。

「戦争に行きたくない。徴兵されたくない。殺したくないし、殺されたくもない」

この感情は、決して右や左といった政治思想の産物ではありません。
ひとつの生命として誰もが抱く、最も正当で根源的な願いです。

一度戦争という極限状態に投げ込まれてしまえば、人間は相手を殺さなければ自分が殺されるという不条理なゲームの駒へと変貌させられます。勝とうが負けようが、その世界に入ってしまえば関わったすべての人々にとって不可逆の不幸とトラウマしか残りません。

「現実を見ろ」と批判する声に対して、私たちはこう問い返すことができます。

「一度足を踏み入れれば全員が不幸になる世界を、どうすれば回避できるのかを考え、足掻くことこそが、最も真摯なリアリズムではないか」と。

「大和ミュージアム」in 広島県・呉市。

結論:81年目のバトン ── グラデーションの中で紡ぐ未来

原爆投下から81年目を迎えた今日、私たちが立っているのは、戦争の直接的記憶が失われゆく風化の時代と、アルゴリズムによって世界が分断されていく不確実性の時代の交差点です。

戦争を未然に防ぎ、平和を維持するための道筋は、右か左か、タカ派かハト派かといった単純な二項対立の中には存在しません。

被爆国としての痛烈な当事者性を胸に刻みながら、同時に過熱する世界の直接的衝突から一歩引いた中距離から冷静に構造を見つめ直すこと。この両輪を回せる日本という立ち位置のポテンシャルを自覚することから、新しい対話が始まります。

  • 防衛という現実的な課題から目を背けないこと。
  • それと同時に、人間の尊厳と平和を求める理想を語り続けること。
  • アルゴリズムの提示する単純な敵味方の構図を拒絶し、現場へ赴き、世界の解像度を上げ続けること。
  • 私たちが愛するカルチャーや日常の豊かさを、国境を超えて分かち合い続けること。

直接の戦争を経験していない世代が増えていくことは、過去の記憶が薄れる危険性を孕んでいます。しかし同時に、それは「81年間、一度も戦争を経験せずに生きてこられた」という、人類史上において極めて奇跡的で幸運な時代の証左でもあります。

私たちが果たすべき責任は、感情の熱量と冷静な構造分析を往還させながら、この豊かな日常とコンテンツと対話に満ちた世界を破綻させることなく、より解像度の高い形で次の世代に手渡していくことです。

私たちには、文字があり、映像があり、音楽があり、そして国境を超えて対話できる言葉があります。

赤土の風が吹き抜けるケニアの街角で、遠いヒロシマとナガサキの記憶を胸に抱きながら。
私はこの”壊したくない世界”を、解像度の高い自らの言葉と足取りで、ひとつずつ選び取り続けていきたいと思います。

▼昨年書いた記事

https://note.com/h_yasuo/n/na512d976e7f8

▼参考(おすすめ)

https://coten.co.jp

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOSG31AG80R30C26A7000000

https://www.oppenheimermovie.jp