【ケニア派遣214日目】短くなった夜と、デジタル依存の自覚。一人で多めに作るご飯のあとに感じる静かな寂しさ

ケニア派遣214日目。電気の復旧により一瞬で戻ったマルチタスクと多動。家計簿アプリの入力やブログ、小説の書き起こしをこなして充実感を得る一方、便利さと引き換えに夜が短くなったことに一抹の寂しさを覚えます。さらに、一人で多めのご飯を作った瞬間に去来する「何も考えずに日本語で話したい」という等身大の孤独と、男同士のコミュニケーションの性質について静かに考察します。

電気が連れてきた「短い夜」と、一瞬で戻った多動

昨晩、ようやく電気が復旧しました。

灯りがともり、数日ぶりにデジタルデバイスが息を吹き返した瞬間から、私の「マルチタスク」と「多動」のスイッチは、まるで最初からそうプログラミングされていたかのように一瞬で元に戻りました。

自分用に自作した家計簿アプリを開き、溜まっていたこの2週間分の収支データを細かく入力する。ノートの紙の上に手書きで書き留めていたブログや小説の下書きを、インターネットの画面上へと一気に書き直してデジタル化していく。 夕方から夜のワールドカップのキックオフ時間までは、観たかったドラマを一気に見進める。

やりたいことが次々と消化できていくプロセスは、文句なしに快適で、とても充実した時間を過ごすことができました。

ただ、その一方で、不思議な感覚に囚われました。

「夜が、ずいぶんと短くなってしまったな」

電気がなかった5日間。 外が暗くなると同時にやれることが狭まり、ただ太陽のサイクルに従って静かに横になり、頭の中で思考を泳がせていたあの時間。あの、引き延ばされたような長い夜も、実はそれほど悪くなかったのかもしれない、と今になって思います。

そして同時に、自分がいかにデジタルデバイスなしでは生きられない生活システムに組み込まれているかを、改めて突きつけられた気がします。日本で暮らしている分には、何の問題もありません。ただ、このケニアの地でその依存の深さを突きつけられると、どこか奇妙な居心地の悪さが残るのも事実です。

一人で多めに作ったご飯と、ふと去来する寂しさ

こうしてデジタル環境が復活し、ドラマやアニメのエンタメ世界にどっぷりと浸っていると、ふと、胸の奥が少しだけチクリと痛む瞬間があります。

画面の中で繰り広げられる男女の恋愛模様を観ていると、寂しさのようなものが頭をもたげてきます。

週刊少年ジャンプで追っていた恋愛漫画の2作品が、ほぼ同じタイミングで連載を終えます。その重なりもあって、なんだか胸のなかが、言葉にならない置いてけぼり感で満たされています。

もちろん、私自身の人生において、恋愛の優先順位は限りなく低いです。 仕事や、漫画、読書、自分の知的好奇心を刺激するインプットに比べれば、それはずっと後回しの領域にあることは間違いありません。別になくてもいい、そう割り切っているはずでした。

ただ、ここケニアで一人で暮らし、一人で少し多めに料理を作って、それを静かに食べているとき。 「ああ、寂しいな」 という等身大の孤独が、言い訳のしようもない純度で、ふっと部屋の中に充満します。

恋人が欲しいという高尚な話ではありません。 ただ、何も考えずに、頭の中で一度翻訳を通すこともなく、自然な日本語で誰かとたわいもない話をしたい。自分の作った料理を「美味しいね」と分け合って、ただそれだけで笑い合いたい。 このシンプルな温もりから遠く離れた場所に一人で立っているのだという事実を、煌々と灯る電球の下で、改めて自覚させられます。

『イン・ザ・メガチャーチ』と、男同士の会話の限界

そうした人間関係や性差の不思議について考えていたとき、朝井リョウさんの『イン・ザ・メガチャーチ』の一節を思い出していました。
そこで描かれていたのは「男は年齢を重ねれば重ねるほど、男同士だけでは会話ができなくなっていく」という指摘です。

これは、確実な性差の構造なのだろうと思います。

女性同士であれば、年齢や立場に関係なく、自分の弱さや感情の揺らぎ、あるいは恋愛や生活の機微といったパーソナルな部分をフラットに共有し、共感し合えるコミュニケーションの土壌が自然と耕されています。

対して、男同士が集まると、年齢を重ねるにつれて、どうしても「仕事の成果」「社会的地位」といった、何かしらの外部の「記号」を媒介させなければ会話が成り立たなくなってしまいます。用がなければ、そもそも会うことも話すことはほとんどありません。

四半世紀を生きようとしているこの年齢の男が、異国の僻地で一人でご飯を食べているときに感じるこの寂しさは、単に「誰かと話せば解決する」という性質のものではありません。

記号に頼らない、体温の通った言葉のやり取り。
それを、私は今、どこかで渇望しているのかもしれません。

電気が戻り、たくさんのタスクが片付いていく心地よさと。
その光に照らされたことで、よりいっそう輪郭がくっきりと浮かび上がった、一人暮らしの静かな夜。

たまには、この寂しさを否定せず、多めに作ったご飯の残りをタッパーに詰めながら、スワヒリ語のテキストでも眺めることにします。 明日からもまた、この人間らしい揺らぎを抱えたまま、マトゥングのピッチを実直に歩いていきます。電気が連れてきた「短い夜」と、一瞬で戻った多動

昨晩、ようやく電気が復旧しました。

灯りがともり、数日ぶりにデジタルデバイスが息を吹き返した瞬間から、私の「マルチタスク」と「多動」のスイッチは、まるで最初からそうプログラミングされていたかのように一瞬で元に戻りました。

自分用に自作した家計簿アプリを開き、溜まっていたこの2週間分の収支データを細かく入力する。ノートの紙の上に手書きで書き留めていたブログや小説の下書きを、インターネットの画面上へと一気に書き直してデジタル化していく。 夕方から夜のワールドカップのキックオフ時間までは、観たかったドラマを一気に見進める。

やりたいことが次々と消化できていくプロセスは、文句なしに快適で、とても充実した時間を過ごすことができました。

ただ、その一方で、不思議な感覚に囚われました。

「夜が、ずいぶんと短くなってしまったな」

電気がなかった5日間。 外が暗くなると同時にやれることが狭まり、ただ太陽のサイクルに従って静かに横になり、頭の中で思考を泳がせていたあの時間。あの、引き延ばされたような長い夜も、実はそれほど悪くなかったのかもしれない、と今になって思います。

そして同時に、自分がいかにデジタルデバイスなしでは生きられない生活システムに組み込まれているかを、改めて突きつけられた気がします。日本で暮らしている分には、何の問題もありません。ただ、このケニアの地でその依存の深さを突きつけられると、どこか奇妙な居心地の悪さが残るのも事実です。

少し模様替えしたら、プロジェクターが使いやすくなりました。
『スタートアップ』という韓国ドラマを最近は見ています。

一人で多めに作ったご飯と、ふと去来する寂しさ

こうしてデジタル環境が復活し、ドラマやアニメのエンタメ世界にどっぷりと浸っていると、ふと、胸の奥が少しだけチクリと痛む瞬間があります。

画面の中で繰り広げられる男女の恋愛模様を観ていると、寂しさのようなものが頭をもたげてきます。

週刊少年ジャンプで追っていた恋愛漫画の2作品が、ほぼ同じタイミングで連載を終えます。その重なりもあって、なんだか胸のなかが、言葉にならない置いてけぼり感で満たされています。

もちろん、私自身の人生において、恋愛の優先順位は限りなく低いです。 仕事や、漫画、読書、自分の知的好奇心を刺激するインプットに比べれば、それはずっと後回しの領域にあることは間違いありません。別になくてもいい、そう割り切っているはずでした。

ただ、ここケニアで一人で暮らし、一人で少し多めに料理を作って、それを静かに食べているとき。 「ああ、寂しいな」 という等身大の孤独が、言い訳のしようもない純度で、ふっと部屋の中に充満します。

恋人が欲しいという高尚な話ではありません。 ただ、何も考えずに、頭の中で一度翻訳を通すこともなく、自然な日本語で誰かとたわいもない話をしたい。自分の作った料理を「美味しいね」と分け合って、ただそれだけで笑い合いたい。 このシンプルな温もりから遠く離れた場所に一人で立っているのだという事実を、煌々と灯る電球の下で、改めて自覚させられます。

『イン・ザ・メガチャーチ』と、男同士の会話の限界

そうした人間関係や性差の不思議について考えていたとき、朝井リョウさんの『イン・ザ・メガチャーチ』の一節を思い出していました。
そこで描かれていたのは「男は年齢を重ねれば重ねるほど、男同士だけでは会話ができなくなっていく」という指摘です。

これは、確実な性差の構造なのだろうと思います。

女性同士であれば、年齢や立場に関係なく、自分の弱さや感情の揺らぎ、あるいは恋愛や生活の機微といったパーソナルな部分をフラットに共有し、共感し合えるコミュニケーションの土壌が自然と耕されています。

対して、男同士が集まると、年齢を重ねるにつれて、どうしても「仕事の成果」「社会的地位」といった、何かしらの外部の「記号」を媒介させなければ会話が成り立たなくなってしまいます。用がなければ、そもそも会うことも話すことはほとんどありません。

四半世紀を生きようとしているこの年齢の男が、異国の僻地で一人でご飯を食べているときに感じるこの寂しさは、単に「誰かと話せば解決する」という性質のものではありません。

記号に頼らない、体温の通った言葉のやり取り。
それを、私は今、どこかで渇望しているのかもしれません。

電気が戻り、たくさんのタスクが片付いていく心地よさと。
その光に照らされたことで、よりいっそう輪郭がくっきりと浮かび上がった、一人暮らしの静かな夜。

たまには、この寂しさを否定せず、多めに作ったご飯の残りをタッパーに詰めながら、スワヒリ語のテキストでも眺めることにします。 明日からもまた、この人間らしい揺らぎを抱えたまま、マトゥングのピッチを実直に歩いていきます。