【ケニア派遣206日目】約束を破られた朝に考える。日本人を形作る「リスペクト」の正体と、言語化する意味

ケニア派遣206日目。朝8時の学校訪問での締め出しと、レストランからの度重なる約束不履行。現地のルーズさにやる気を削がれながらも、病院のいちご畑に敷かれた綺麗な枯れ草マルチに救われます。約束を守ることや八百万の神に通ずる「万物へのリスペクト」という日本人のアイデンティティを再自覚し、無自覚な「空気」を言語化して他者と歩み寄る大切さを深く考察します。

約束の不履行がもたらす、削がれた熱量

今日は、昨日からの約束を果たすため、朝の8時に地元の学校へと向かいました。

昨日は先方の都合に合わせてスケジュールを調整したはずでした。しかし、時間通りに学校の門を叩いても、中にいれてもらうことすらできません。約束をしていた方に何度電話をかけても、コール音が虚しく響くだけで、一向に繋がる気配はありませんでした。

昨日は自分たちの都合だったから、すぐに電話を繋いできたのに。
面倒になって、うやむやにしてしまったのだろうか。

門の前で立ち往生しながら、私の心の中には、やるせなさと強いストレスが静かに蓄積していきました。

その後も、追い打ちをかけるようなハプニングが続きます。
昨日「今日中に連絡する」と約束を交わしていたレストランのマネージャーからも、待てど暮らせど電話がかかってこない。

最近、新規の販路開拓のために新しい人々を相手に動くことが増えたからか、こうした「約束の不履行」に直面することが非常に多くなりました。約束した時間、約束した場所に向かっても、そこに相手の姿がない。

アフリカではよくある話だと、周囲の人は片付けてしまいます。でも、どれだけ時間が経っても、この理不尽さに対して心から納得し、受け入れることはどうしてもできません。
そこにあるのは、単なる時間管理のルーズさだけではない、相手に対する最低限の「リスペクト(敬意)」の欠如のように感じられてしまい、どうしてもやる気が削がれてしまいます。

この国に染まりきって、自分まで他人の時間を軽視する人間には決してなりたくない。
そんな静かな誓いだけを胸に、学校の門を後にしました。

植物は裏切らない。病院のいちご畑に敷かれた枯れ草

やるせない気持ちを抱えたまま、頭を切り替えて、病院のいちご畑のプロットへと様子を見に向かいました。

畑に到着して、少しだけ救われた気持ちになりました。
そこには、私が以前アドバイスした通り、乾燥を防ぐための枯れ草のマルチが、土の上にきれいに敷き詰められていました。

土壌の栄養がまだ少し足りていないのか、他の土地に比べると、いちごの成長スピード自体はのんびりとしています。それでも、株そのものの状態は決して悪くありません。丁寧に管理されていることが、畑の表情から真っ直ぐに伝わってきます。

人間を相手にしていると、どれだけ真摯に準備をして、誠意を尽くして向き合っても、いとも簡単に約束を裏切られたり、から回ったりすることがあります。 しかし、目の前の土や植物たちは、私たちが手をかけ、知恵を絞って管理してあげた分だけ、静かに、でも確実にその成果で応えてくれる。

人間関係の不条理に少し擦り切れた心に、彼らの実直な成長が静かに沁み渡っていくようでした。

日本人を形作る「リスペクト」という無自覚なOS

なぜ、これほどまでに約束を破られることに不快感を覚えてしまうのか。

このケニアという異国の地で暮らすなかで、私は「日本人としての自分」というアイデンティティを、これまでになく強烈に自覚させられます。

日本人を日本人たらしめている本質、私たちが心の奥底で最も大切に守っているOS。
それは、あらゆる物事に対する「リスペクト」の精神だと思います。

使った後の場所を、来た時よりも美しく整えてから立ち去ること。
食事をいただく前に、目の前の命とそれに関わったすべての人に感謝を込めて「いただきます」と手を合わせること。
そして、相手の時間を自分の時間と同じように尊いものと捉え、交わした約束を何が何でも守り抜くこと。

これらの行動は、私たちが幼い頃から、家庭や学校で半ば無自覚に叩き込まれてきた習慣です。

その精神性の根底には、すべての万物に神が宿ると考える「八百万の神」の思想が、歴史を超えて私たちの血の中に溶け込んでいるからなのかもしれません。私たちは、自然に対しても、モノに対しても、そして当然他者に対しても、常に目に見えない「畏敬の念」を抱きながら生きています。

外の世界へ一歩飛び出すことで、自分がどれほどその「リスペクトの精神」に支えられ、それを誇りに思っているのかに、初めて自覚的になることができます。

しかし、この日本人の美徳は、裏を返せば弱点にもなり得ます。 私たちがこれほどまでに「リスペクト」を重んじ、高いモラルを保っていられるのは、全員が同じOSを共有している、という暗黙の前提(=空気)の上になりたっているからです。

「言わなくても、これくらいは常識としてやってくれるはずだ」
「わざわざルールに書かなくても、空気を読めば分かるだろう」

そうやって言葉にすることを怠り、無自覚に「空気」に頼りきってきた結果、日本の社会は、外からやってきた文化の異なる人々がどうしても入り込めない、極めて閉鎖的な空間を作ってしまっているようにも見えます。

「空気」を言葉に翻訳し、他者と歩み寄る術

いま、日本の移民政策や外国人労働者の受け入れを巡っては、さまざまな議論や批判が飛び交っています。

治安の悪化への懸念や、文化的な摩擦への不安は、私も一人の日本人として痛いほど理解できます。誰もが安心して暮らせる社会を守るために、法的な制度としての厳格な制限や厳しさは、絶対に必要不可欠な賛成すべき意見です。 しかし、だからといって「すべての外国人」を十把一絡げにして扉を閉ざし、高い意欲と優れた能力を持った、本当に日本で挑戦したいと願う人々のチャンスまで一律に奪ってしまうのは、少し違うのではないか、とも感じます。

これからの日本は、深刻な少子高齢化が進み、労働力だけでなく、国内消費・市場自体もどんどん縮小していく現実から逃れることはできません。

この避けられない未来のなかで、私たちが他者と手を取り合っていくために必要なこと。
それこそが、私たちが無自覚に守ってきた「日本の空気」を、自分の頭で明確に自覚し、外の人々にも伝わる共通の言葉として翻訳して説明するプロセスだと思います。

「なぜ、私たちは約束を守ることをこれほど重要視するのか」
「なぜ、この場所をみんなできれいに清掃しなければならないのか」

小難しいコンプライアンスのルールを押し付けるのではなく、自分たちが大切にしている美学や価値観を、敬意を持って粘り強く他者に語り聞かせ、歩み寄る努力を重ねること。

それは、私がいま、ケニアという全く異なるOSを持った国の中で、農家さんや同僚たちと「ちょうどいい距離感」を探りながら、対話を重ねてプロジェクトを進めようともがいているプロセスと、全く同じです。

相手のルーズさにどれだけやる気を削がれても、私は「約束を大切にする」という自分の美学を手放すつもりはありません。 でも、ただ怒って心を閉ざすのではなく、私たちがなぜそれを大切にしているのかを、彼らの言葉に翻訳して伝え続ける。

明日からも、手のひらの皮がめくれた手のひらで、もう一度丁寧に土を耕しながら。 自分のアイデンティティという羅針盤をしっかりと見つめて、マトゥングのピッチを走っていきます。