3時半の起床と、久しぶりに手に入れた休日の「余白」
今朝は、日本の知人とオンラインで話をするために、まだ外が真っ暗な午前3時台に起床しました。
日本の午前中にスケジュールを合わせようとすると、ケニアとの時差の関係上、どうしてもこのような超早朝(というか深夜)のスタートになってしまいます。 ここ最近は、4年に1回のワールドカップをリアルタイムで観戦していることもあって、私の睡眠時間はかなり変則的。お世辞にも身体に良い生活リズムとは言えませんが、深夜に一人、画面に齧り付いて得るあの激しい興奮と感情の起伏は、睡眠不足というコストを払ってでもお釣りがくるものです。祭典も残りあと3週間。最後までみっちり、この不規則な夜を戦い抜こうと覚悟しています。
そんな寝不足気味の身体を休めるように、今日は久しぶりに予定を詰め込まず、家の中でゆったりとした時間を過ごしました。 ここ最近の週末は、活動の合間を縫って外出し続けていたため、自分の家で心ゆくまで息を抜くのは久しぶりです。
ベッドシーツを洗い、爽やかな風に当てて干す。 それから、読みたかった本をめくり、映画やドラマをのんびりと鑑賞する。 何も生み出さない、でも自分を回復させるためには絶対に必要だった、「余白」をまとめて消化できた充実した1日でした。
『不適切にもほどがある』に観る、令和の「静けさ」の違和感
その休日のなかで、少し前に日本で話題を呼んでいたドラマ『不適切にもほどがある』を観ました。想像以上に面白く、深く考えさせられる名作でした。
単なるタイムスリップもののコメディとしてもテンポが良くて笑えるのですが、その物語の根底に流れているのは、「現代社会(令和)の異常さ」と「昭和の異常さ」の対比と批評です。 昭和のスパルタ体育教師が令和にタイムスリップし、令和のシングルマザーが昭和に迷い込む。お互いがそれぞれの時代に困惑し、適応しようともがきながらも、その時代の人々が盲信している「当たり前のおかしさ」に強烈なツッコミを入れていくプロセスが、とにかく小気味よい。
厳しすぎるハラスメントの基準や、がんじがらめのコンプライアンス。
一方で、あまりにユルすぎて人権もデリカシーもあったものではない、昭和の荒々しい基準。
劇中で、令和の時代を指して語られた「なんか、静か。」というセリフが、妙に私の胸に引っかかりました。
言いたいことがあっても、それを口にすればすぐに「それはハラスメントだ」「不適切だ」とレッテルを貼られて糾弾される令和の日本。誰もが他人の目を気にし、傷つけることを恐れ、あるいは傷つけられることを過剰に警戒した結果、社会全体がどこか冷たく、よそよそしく、そして不気味なほど「静か」になってしまっている。どこか寂しさを内包しているように見えました。
マトゥングに漂う「お節介な昭和」と、悪意なき温度
そして、この「なんか静か」な令和の閉塞感を見つめたとき、ふと、いま私が暮らしているケニアの日常が頭に重なりました。
ケニアのメディアや公の場こそ現代的なアップデートを遂げていますが、ここマトゥングのローカルな現場で交わされるオフラインの会話は、驚くほど日本の「昭和」の距離感にそっくりなのです。
路上を歩いていれば、あるいは農家さんの家に行けば、挨拶もそこそこに、 「お前はなんで結婚していないんだ?」 「うちの娘はどうだ?紹介してやるぞ」 といった、プライベートな領域に土足で踏み込んでくるような無遠慮な質問が、日常茶飯事のように飛び込んできます。
日本で同じことをやれば、一発で「セクハラ」や「不適切」の烙印を押され、アウトになるようなデリカシーのない絡み方。 ケニアに来たばかりの頃は、そのあまりに境界線のない、騒がしくて距離の近いコミュニケーションに対して、正直なところ強い不快感やウザさを覚えたことも少なくありませんでした。
けれど、この地での暮らしが半年を超えた今、私の受け取り方は少しずつ変わってきています。
彼らの放つそのお節介な言葉の奥には、悪意や他人を攻撃しようとする意図なんて、1ミリも存在していません。ただ、外から来た私に興味があり、彼らなりの精一杯の親しみとコミュニケーションの表現として、その言葉を選んでいるに過ぎません。
お互いに過剰なバリアを張って、誰も傷つかない代わりに誰とも深く繋がれない「冷たくて静かな令和」の人間関係。
デリカシーは皆無で騒がしいけれど、どこか人間味のある温度が通っている「お節介なケニアの昭和」。
両極端な2つの世界を行き来していると、冷淡で洗練された無関心よりも、この少しウザくて温かいお節介のほうが、人間らしくてずっと救いがあるんじゃないか、とさえ思えてきます。
「寛容になる」という、厳しすぎる現代への処方箋
もちろん、昭和のハラスメントが肯定されるべきだとは思いません。
でも、現代の日本はあまりにもあらゆる物事に対して厳しすぎるのではないでしょうか。
お互いがお互いを監視し合い、些細な不適切さも見逃さずに叩き潰す。 そんな息苦しい令和の時代に必要な処方箋は、きっと「寛容になること」なのだと思います。
「それは不適切だ!」と目くじらを立てて排除するのではなく、「まあ、悪気はないんだろうな」 「そういう考え方もあるよね」 と、相手の不器用さや違いを少しだけ引き受けて、笑って受け流す心の余白。寛容さ。
近すぎず、遠すぎない、お互いにとっての“ほど良い”距離感。
お腹をキュルキュルと痛ませながら、電気が消えたマトゥングの暗い部屋で、それでも近所の人たちと笑い合っている私のケニアでの生活は、まさにこの「ほど良さ」と「寛容さ」に満ちています。
日本の知人と時差を越えて言葉を交わし、世界最高峰のサッカーに熱狂し、お節介なケニアの隣人たちと生きる。
現代社会の過剰なノイズから一歩身を引いたこのマトゥングの地で、私は自分の心の中に、何物にも揺らがない、新しくて温かい「寛容さの種」をゆっくりと育てられているような気がします。
たっぷり充電できた休日の余白を胸に。 明日からはまた、この騒がしくて愛おしい「昭和なマトゥング」のピッチへと、笑顔で繰り出していこうと思います。