チュニジア戦の圧倒と、ピッチの裏の不条理
昨夜は久しぶりに夜更かしをしましたが、今朝は早朝7時から日本代表のワールドカップ第2戦があったため、気合で早起きしました。
いつもならハラハラさせられることの多い第2戦ですが、今回は正直、全くドキドキしませんでした。終始落ち着いて見ていられるほど、日本の強さが圧倒的でした。
もちろん日本が強かったのもありますが、対戦相手のチュニジアは明らかにチームとして機能していませんでした。守備の連動もバラバラで、どこでボールをハメたいのかも分からない状態。 観ている側に「やる気がないのだろうか」とさえ思わせてしまう内容でしたが、国を代表して戦っている以上、不甲斐ない試合をわざとするはずがありません。監督が交代してわずか数日、チームとしての共通認識が全く構築されていない過酷な状況のなかで、あのレベルのプレッシャーに晒されながらサッカーをするのは、想像を絶する難しさだったはずです。監督も選手も、少し同情してしまうような環境でした。
何はともあれ、日本にとってはきっちり勝ち点を積み上げられて良かったです。次戦も一発の怖さを持っている選手がいるチームなので油断はできませんが、このまま勝ち進んでほしいです!!
KFCのチキンが教えてくれた「今、ここ」の幸せ
日中はタウンまで買い物に出かけ、お昼ご飯は久しぶりにKFCへ。
手に入れたチキンを、感動しながら骨までしゃぶり、指まで舐めるようにして夢中で貪り食いました。 ふと我に返って周囲を見渡すと、そこには落ち着いた様子でチキンを嗜んでいる、おそらく普段からKFCに通い慣れているであろうケニア人たちの姿。
彼らに囲まれていると、一瞬、自分たちがものすごく貧乏になったような錯覚に陥りました。
実際、隣の席に座っていたケニア人の女性は、私たちがチキンを口にするたびに声を上げて大感動している姿を見て、面白そうにクスッと笑っていました。
しかし不思議なことに、惨めな気持ちや恥ずかしい感情は、これっぽっちも湧いてきませんでした。目の前の肉があまりに美味しくて、感動することに忙しすぎて、周囲の目線なんか気にしている余裕がなかったからです。
周りと比べるのではなく、今ここにある自分の幸せに集中する。
帰り道、一人で歩きながらそんなことを考えていました。 誰がどう見ているか、誰が自分より裕福か、そんな相対的な評価はどうでもいい。自分が「今、美味しい、幸せだ」と心から感じているその事実に勝る価値なんて、どこにもないのだと思います。

マタツの揺れと、物価高の現実
帰り道、乗車したマタツ(乗合バス)の揺れが驚くほど心地よく、ゆりかごに揺られているような感覚で爆睡してしまいました。土日の疲れが一気に抜けていくようでした。
ただ、心地よい時間とは裏腹に、財布には厳しい現実が突きつけられています。 ケニアでは燃料費の高騰に伴い、バスの乗車価格が目に見えて上がっています。特に、隣町ムミアスから任地マトゥングへの移動費が2倍に跳ね上がっているのが、何より生活を圧迫します。
日用品の調達や、プロジェクトに必要な農業資材を購入するための大きめのアグロベット(農業資材店)は、隣町まで行かないとありません。この移動コストの上昇は、これからの活動において、地味だけど確実な痛手になりそうです。
スペイン代表の美しさと、25歳を目前にした私の現在地
夜は、眠い目をこすりながらスペイン代表の試合を観戦しました。
彼らは、まるで息をするように簡単に、そして子どもたちがサッカーをするように楽しそうにプレイします。本当にうまい。フルメンバーのスペインは手がつけられないほど強く、前半で主力選手が交代してからは失速したものの、圧倒的なクオリティを見せつけられました。
さらに驚くべきは、主力としてピッチで輝いているヤマルやクバルシといった選手たちが、まだ20歳にも満たない10代であること。当たり前ですが、もう私よりも随分と年下です。
かつては、プロサッカー選手を目指して、真剣にあそこを目指していた側の人間でした。しかし今は、彼らのプレイを見ても悔しさや嫉妬は湧かず、ただ純粋に美しいものとして感動している自分がいました。もうそんな熱い悔しささえ抱かなくなったことに、ふと「自分も年をとってしまったのかな」と苦笑いしてしまいます。
もうすぐ、25歳。四半世紀を生きたことになります。
最近は、「何者」かになりたいという若気の至り的な執着から、ずいぶんと脱却してきたような気がします。大きな看板を背負うことよりも、人生の主役として、今この瞬間をしっかりと楽しめていればそれで合格。そんなフラットな感覚です。
自分がやりたいこと、好きなことを愚直にやる。
そのために必要となる「我慢」を最小限に抑えるための道を、自分の頭で探して、努力を重ねていく。
そんな、シンプルで、でもとても贅沢な生き方でいいじゃないか。
心地よい疲労感に包まれながら、自分の現在地を肯定できた、穏やかな休日の終わりでした。