【ケニア派遣186日目】すべてを変えることが正解なのか?スナノミ症支援の現場と、当事者の「認知の変化」

ケニア派遣186日目。ナイロビから辺境の地を訪れてくれた3人の日本人を案内。マルチや畝幅に同じ違和感を抱く「日本人の眼差し」を感じつつ、他隊員の任地へ。元弁護士のケニア人NGOスタッフが直面するスナノミ症や貧困の現場から、課題の連鎖と「認知の変化」の重要性を考察します。

ナイロビからの訪問者と、日本人の「眼差し」

今日は、ナイロビからここカカメガまではるばる訪問してきてくれた、3人の日本人の方々を案内しました。 うち2人とは初対面でしたが、辺境のマトゥングの空気に乗っかって、気づけば普通に1日中ずっと一緒に行動していました。

こんな交通の便も悪い田舎に興味を持って、実際に足を運んでくださるだけでも本当にありがたいことです。

私たちのプロジェクトの現場である農家さん2軒を案内しました。 案内しながら、私自身の今の等身大の悩みを打ち明けました。 マルチの敷き方ひとつ、畝の幅ひとつ取っても、「もっと綺麗に、効率的にやれる方法があるのに」と、現地の農家さんの意思や現状を尊重しつつも、心のどこかでどうしてももどかしさを抱えてしまうこと。

すると、訪問してくれた方も、不思議なほど私と全く同じポイントに引っかかり、同じところに驚き、同じように「どうしてこうなるんだろう?」と疑問を口にしていました。 その姿を見て、「あ、やっぱり日本人なんだな」と可笑しく、そして少し安心した気持ちになりました。

ケニア人と一緒に働くことの、一筋縄ではいかない難しさ。けれど、噛み合う瞬間があるからこその楽しさ。 都会であるナイロビに普段暮らしている3人に、マトゥングのありのままの田舎風景を見てもらうことができて、とても良かったです。

夕方からは、他の隊員が活動している任地へも一緒に移動しました。 こちらも、絵に描いたようなのどかな田舎。

「何もないけれど、だからこそ、何もないこと自体がとてつもなく美しい」

そんな静けさに満ちた、素晴らしい場所でした。

田舎の夜の静寂と、むき出しのジェンダー格差

日本人5人で歩いていると、田舎の村では流石に目立つため、あちこちから視線を浴びたり、話しかけられたりします。 ただ、日中であれば、彼らとの関わりで嫌な思いをすることはほとんどありません。みんな、どこまでも素朴で温かい。

しかし、ひとたび日が暮れると、その顔は全く異なるものへと変貌します。 ここカカメガの田舎では、夜になると人通りは消え、街灯もほぼ無いため、文字通り完全な漆黒に包まれます。実際、この付近では最近も凄惨な殺人事件が起こり、犯人が住民たちに見つかって手足を切断された上で焼かれるという、私たちが言葉を失うような自警団による凄惨な私刑事件もあったそうです。都会のナイロビとも全く違う、田舎だからこその暗闇と治安の厳しさを痛感させられます。

そして、もう一つ強く意識させられたのが、日中の移動であっても「女性がメンバーにいる」というだけで、現地での受け取られ方が一変するという現実でした。

女性がいるだけで、通りすがりのケニア人男性たちから投げかけられる言葉の温度が明らかに変わります。ついてこられたり、「その女性を紹介しろ」「その女を俺にくれ」という、執拗でむき出しの言葉を浴びせられることが何度もあしました。私1人、あるいは男だけで歩いている時には、そんなセクシャルな絡まれ方をすることはほとんどありません。

やはり、ここケニア、特に地方部においては、性別による境界線(ジェンダーギャップ)が驚くほど明確に、そして生々しく存在しています。アフリカという土地で女性が一人で行動することの難しさ、それを取り巻くリスクの高さという男女の確実な差を思い知らされました。

課題の連鎖と、国際協力の「正解」を求めて

夜は、今回訪問してくれた日本人の活動パートナーである、ケニア人の方のご自宅にお邪魔して、泊まらせていただくことになりました。 たくさんの手料理を振る舞っていただき、お腹を満たしながら、夜が更けるまで対話を交わしました。

彼はもともと、国のために働く弁護士という輝かしいキャリアを持っていたそうです。けれど今は、草の根の地域で、スナノミ症(寄生虫病)の治療や貧困層の支援、教育環境の整備といった、最も取り残された人々への支援活動に身を投じています。

彼が向き合っている現実は、想像以上に複雑で、根深いものでした。

日本人NGOとも協力して活動している彼と、私たちは夜が更けるまで問いを重ね、考えを巡らせました。

目の前のスナノミ症に苦しむ患者を治療すれば、それでこの地域は本当に救われるのか。薬を調達して配るだけで、問題は解決するのか。あるいは、衛生環境そのものを根本から整備しなければ意味がないのではないか。もっと言えば、その根底にある「教育」や、さらには国全体の「貧困問題」そのものに抜本的に向き合わなければ、活動は一生同じことを繰り返すだけなのではないかーー。

すべての課題が、ドミノ倒しのように連鎖している。この不条理を本当に変えようとするならば、私たちは何かとてつもなく、抜本的で、とてつもない大きな力で社会の仕組みそのものをひっくり返さなければならないような、そんな無力感にさえ襲われます。

しかし、これは私自身の協力隊活動で日々、壁にぶつかっている悩みとも真っ直ぐに通じています。

あらゆる国際協力の現場において、使える人的・資金的なリソースは、あまりにも限られています。 それに、そもそも「彼らの生活のすべてを、私たちの基準で変えてしまうこと」が、本当に正義で、本当に正しい正解なのか。 外から来た私たちが「課題」と呼んでいる現地の暮らしのなかには、実は変える必要のないもの、変えてはいけない美しい習慣や、守るべき尊い文化だって、たくさんあるはずです。

そういったローカルの価値観に細心の注意を払わず、ただ目の前の「課題解決」に盲目的に突っ走ってしまうことは、彼らの自立やプライドを傷つける、とても危うい刃になり得ます。

結局のところ、国際協力に、絶対の正解なんてどこにもありません。
インフラを整えるODAのような政府レベルの巨大な支援、国連のようなマクロな大規模アプローチ、そして私たちがやっているような、一人ひとりの顔が見えるNGOや協力隊の草の根支援。それぞれのセクターが、それぞれのスケールと角度から、同時多発的に活動し続けることにしか、意味はないのだと思います。

アクションではなく、内なる「認知の変化」に目を向ける

そして何より、今日オーナーシップに溢れる彼と話していて最も深く腹に落ち、自分のこれからの活動の強力な指針にしたいと思ったことがあります。

それは、外部から持ち込んだ支援やノウハウを相手が「アクション」という表面的な事実に、安易に注目してはいけない、ということでした。
私たちが本当にアプローチしなければならないのは、彼らの「行動」そのものよりも、その手前にある「自ら現状に課題を感じ、自分ごととしてやりたいと思う」という、内なる『認知の変化』に他なりません。

これまでのマトゥングでの活動を振り返ると、私はどうしても農家さんが「毎日キノコの袋をチェックしているか」「言った通りに水をまいているか」といった、目に見えるアクションばかりに気を取られ、一喜一憂していました。

けれど、彼らが「トムが来るからやる」「言われたからやる」という受動的な動機で動いているうちは、どんなに完璧に作業をこなしていたとしても、それは支援者がいる間だけの単発のイベントでしかありません。支援者が去れば、そのアクションは砂の城のように一瞬で消えてしまいます。

本当に大切なのは、アクションの数そのものではありません。
「これは自分たちのビジネスなんだ」「自分たち自身の手で、生活を良くしていけるんだ」と、彼らが心から課題を感じ、自発的に「やりたい」と熱を帯びる、その瞬間。
その認知のシフトが起きて初めて、彼らは自発的に動き出し、こちらが言わなくても自分の頭で工夫し、歩き出します。

外から無理やり押し付けたシステムや、義務感だけのアクションは必ずいつか破綻します。 彼らが自発的に動き出すまで、いかに隣に寄り添い、彼らの内側の認知を静かに、でも確実に揺さぶるか。それこそが、国際協力において、最も難しく、最も価値のある挑戦なのだと思います。

国際協力とは何か。正義とは、一体何なのだろうか。

考えるべき問いは、ケニアにきて186日が経った今も、頭の中で複雑に絡み合って整理できていません。
でも、きっと考えすぎて立ち止まってしまったら、目の前の農家さんたちの手は止まってしまう。考えすぎて動けなくなるくらいなら、私は今の自分の不勉強さも、葛藤もすべて抱えたまま、一歩前に進もうと思います。

絶対の正解は出せなくても、今の自分にできる小さなこと、やれる役割を、一つひとつ丁寧に、マトゥングの土の上でやり切っていきます。

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