協力隊とお金——片務のモヤモヤから、共犯関係へ

JICA海外協力隊として現場に立っている人間なら、誰しも一度は胃を痛めたことがあると思う。
少なくとも私は、何度も何度も考えている。

お金の使い方について。

隊員には現地生活費と家賃が支給される。
現地の物価水準に合わせた額とはいえ、私の任地では1週間の生活費が1,000円もかからない。普通に暮らしていれば余る。加えて、申請が通れば使える現地業務費という公金もある。

額の多寡が問題なんじゃない。問題はどう使うかだ。

正直、札束で引っぱたけば解決する問題はこの町に山ほどある。
お金を払って人を雇い、機材を買い揃えれば、物事は見違えるようなスピードで進む。

しかし、その金が人を不幸にすることもある。

いわゆる支援慣れだ。

待っていれば金がもらえる、次も誰かが助けてくれる、最後は神が何とかしてくれる。
外部から降ってきた中途半端な善意は、時に人の思考と努力を奪い、自立の芽を摘み取る。
そういう光景はアフリカの地を歩いているとよく見かける。

実際、私も現地業務費を使ってきのこプロジェクトを始めたが、本当にこれでよかったのかと夜に天井を見上げることがある。

そもそも、世の中のお金のやり取りは大きく6つに分けられるらしい。

  1. 購入・交換(対価・有償):物やサービスを買う
  2. 譲渡・寄付(無償・片務):対価なく与える
  3. 融資・貸借(信用):返す前提で貸し借りする
  4. 投資・出資(リスク性):成果や配当を求めて投じる
  5. 預託・担保(一時保管):敷金や手付金
  6. 制度・公法(義務):税金や補助金

隊員が活動で使うお金は、規定上どう転んでも「2:譲渡・寄付」、つまり対価なく与えることにしかならない。
成果は求めたいけれど、隊員は活動費以外のお金を他から受け取ってはいけない。完全な片務だ。

そう考えると、だいぶ苦しい。

建前は寄付なのに、内心では頑張ってほしいと成果を求めてしまう。
それで相手が動いてくれないと、地獄のような感情になる。

ただ、使ったお金をどう解釈するかにもよるのだと思う。

ビジネスの世界には、スウェット・エクイティ、つまり汗の出資という考え方がある。
お金がないメンバーが、自らの労働力や時間を資本として投じることを指す言葉だ。

金銭のやり取りだけを見れば一方的な寄付に見えるが、明日の生活に余裕がない農家にとって、日雇いや主食の栽培に充てるはずの時間や土地をこちらに割くこと自体、彼らにとっては生活を削った出資に近いのかもしれない。

そう捉え直すと、今までの実験にお金を使ったこと自体は、まあ良かったと思える部分もある。

私は今、メインで2軒の農家と活動していて、来月末から規模を拡大していく計画をいくつかのステークホルダーと立てている。

きのこにたどり着くまでには、いくつものトライアルが必要だった。
いちごもりんごも試したし、他にも色々提案してきたけれど、あんまりうまくいきそうにない。このうまくいくか分からない状況で、現地の人にリスクを負わせるわけにはいかない。

あの段階でお金を使ったのは、相手のためというより、自分がイケると思える活動を見つけるためだった。自分自身の実験代、研究開発費だったと割り切れば、納得はいく。

ただ、じゃあこれで全部スッキリしたかというと、全然そんなことはない。
今後のことは迷いに迷っている。

きのこをやるにしても、まだ試したいリスクのあることは残っている。
ある程度の手応えが見えてきたとして、どのくらいの勝算なら相手にもリスクを背負ってもらうべきなのか。

ナシーム・タレブの言うスキン・イン・ザ・ゲームのように、身銭を切る痛みが伴わないと、結局は支援慣れや無責任を生んでしまう気もする。相手自身の財布からどこまで出してもらうべきなのか。

でも、ここからは全部自分たちでやってくれと資金投入をゼロにしたら、めちゃくちゃ時間がかかるし、規模も小さくなる。任期の中でできることは限られている。

とにかく資金投入だけで解決することはない。

しかし、資金投入なしで進めるには時間がかかりすぎる。

どのくらいの確信度があれば、相手にリスクを渡していいのか。

どこまでをこちらの実験代として抱えるべきなのか。

答えはまだ出ていない。机の上の申請書を前に、その割り切れないバランスを行ったり来たりしている。