「餌」と「食事」のあいだに思いを巡らせてみる

序章:画面の前で噛み砕いていた「燃料」と自己家畜化

かつて東京の職場でパソコンに向かい、画面から目を離さないまま昼食を口に運んでいた頃の記憶があります。

キーボードを叩く指を止めず、左手でおにぎりやサンドイッチを掴み、咀嚼して胃袋へと流し込む。

そこには味覚の記憶も、季節の匂いも、その食材がどこから来たのかという想像力も存在していませんでした。

それは人間としての食事というよりも、機械にガソリンを給油するかのような、単なる栄養・エネルギーの補給作業に過ぎませんでした。

近代の高度消費社会は、あらゆるものをファスト化し、効率化しました。

食も例外ではありません。市場にはあらかじめ解体され、血の一滴すらきれいに拭き取られた肉がプラスチックトレーに並び、工場で作られた加工食品が溢れています。

私たちは、調理の手間はおろか、命をいただくという実感すら抱くことなく、安価で利便性の高いカロリーを瞬時に手に入れることができるようになりました。

しかし、この圧倒的な利便性の裏で、私たちは恐ろしい状態に陥っています。

効率性と生産性を追求するあまり、自らをシステムの中で効率よく稼働させるための「機械」あるいは「家畜」のように扱い、自分の手で自分に燃料を配給している状態です。

食事が単なるエネルギー摂取であるならば、それは動物に与えられる「餌」と何が違うのでしょう。

画面の前で味も感じずに食べものを咀嚼していたあの日々。

自らの食事を「餌」へと解体し、自分自身をシステムに飼育される家畜へと貶めていたのだと思います。

第1章:残り物を漁るサルから、餌を与える「神」へ

ケニアの路上を歩いていると、日常のあらゆる風景の中に家畜が溶け込んでいます。

道端に生えた草を食む牛や羊、民家の軒先で人間が落としたトウモロコシの皮や食べ残しをつつく鶏たち。時に、人間の捨てたプラスチックゴミの破片すら誤って口にしてしまうその姿は、生きるための本能的な分解と吸収のプロセスそのものです。

ここで、人類の歴史におけるひとつのドラマに思いを巡らせてみます。

数百万年前、人類は生態系ピラミッドの頂点に立つ肉食動物たちの「残り物」を貪る脆弱な存在に過ぎませんでした。ライオンが獲物を平らげた後、最後に残された骨を割り、中の骨髄を啜る。人間とは本来、自然界の圧倒的な威圧の前に身を縮め、そのおこぼれをいただくことで生き延びてきたスカベンジャー的な存在でした。

しかし、火を使い、農耕と畜産を発明し、工業化を進めた人間は、その立場を完全に逆転させました。

かつて自然の残り物を乞う存在だった人間は、今や他のあらゆる生命を管理し、囲い込み、残り物や飼料を与える特権的な主体、それはあたかも「神」のようなポジションへと上り詰めたのです。

ケニアの道端で人間が落としたゴミをつつく家畜の光景は、その逆転した支配関係の象徴です。

人間は万物の頂点に立つことで生存を安全にしました。

しかし、圧倒的な支配力を手に入れた代償として、他の命を奪い体に流し込むという生物としての緊張感をブラックボックスへと放り込んでしまいました。

支配者となった人間は、命との直接の対話を放棄し、その結果として自らの食事の意味さえも見失っているように思います。

第2章:遠ざけられた「殺生」と職人の体温

人間が食事という営みを取り戻すためには、そのプロセスの起点にある「殺生」の感覚から目を背けてはなりません。

現代の消費社会が犯した最大の過ちは、この起点をシステムの外側へ追いやったことです。

ケニアのローカルな市場に足を運ぶと、露店に並ぶ肉や魚には無数のハエが群がっています。買い求めると、きれいに切り揃えられた薄切り肉などではなく、ゴツゴツとした骨がそのまま残った肉の塊を手渡されます。ハエを追い払い、硬い骨の周りの肉を噛み砕くとき、否応なしに「これはかつて息をし、血を巡らせていた生き物の体の一部なのだ」という生々しい現実に直面させられます。

そこには、ザラザラとした生のリアリティがあります。

熊本県の「イノP」で研修を行なっている時、猪の屠殺現場に立ち会いました。

それは、まさに誤魔化すことができない生の交換でした。野生の猪を罠で捕らえ、その息の根を止める代表者の複雑な葛藤。親から「なぜそんな仕事をわざわざお前がやらなければいけないのか」と問われ、涙を流しながらも命と向き合い続ける姿。

そこには、命を奪うことの倫理的な重みと、生きるために他者の命を奪わざるを得ない人間の体温がありました。

現代の消費社会は、巨大な処理工場の中で機械的に首を落とし、プラスチックパックに小分けされた無菌の肉を量産します。

この巨大システムを単純な悪として否定することは、その恩恵で生きている私たちにはできません。

しかし、システムが効率化されればされるほど、命を絶つ側の人間の体温と葛藤は消去され、消費者は血の匂いも感じないまま、肉を単なる安価で良質なタンパク質として消費するようになります。

近年、ヴィーガンを選択する人やハラール規定を守る人が増えている背景には、こうしたブラックボックス化された食肉システムに対する不信感や拒絶が含まれています。

私たちは発展と引き換えに、命を奪う行為が持つ「解像度と体温」を奪われたのです。

こうした「殺生」の隠蔽に対し、近年、俳優の東出昌大さんやサバイバル登山家の服部文祥さんのように、自ら山に入り、狩猟採集によって命と直接対峙する生き方が大きな関心を集めています。

都市生活者たちが彼らの生き方に強く惹きつけられるのは、単なる一時のアウトドアブームではありません。分業によってブラックボックス化されてしまった「命を奪い、解体し、自らの身体に取り込む」という全プロセスを、自分の手の中に再び回収しようとする試みだからです。

ここで重要なのは、彼らの試みを「文明を捨てて野性に先祖返りする行為」と混同してはならない点です。

動物のように本能に従って無心で喰らうわけではない。
しかし、無菌のカロリーを流し込む機械への同化でもない。

分業システムに流されて麻痺していた意識を鋭く研ぎ澄まし、命を奪う残酷な現実も、調理や感謝という文化のプロセスも、すべて己の意識と責任で受け直すこと。

つまり、人間としての主体性を奪還するための、実に人間的な試みなのです。

自らの意志で山に入り、命の重みや葛藤を引き受け、刃物を使い、血を抜き、火を熾し、調理し、感謝とともに食べる。

そこには資本主義や都市システムを仲介させない生々しい命の交換があり、便利さと引き換えに人間が失ってしまった自分の生命を自分の責任で生きているという圧倒的な生の手触りが存在しています。

第3章:過剰な加工を削ぎ落とす「ひとさじの塩」と「器の額縁」

殺生の現場において解像度を取り戻す視点は、やがて土と向き合う野菜や日常の食卓そのものへと思いを広げさせます。
しかし、土と向き合う農業の現場においても、消費主義は極度の低解像度化をもたらしています。

農村へ足を運べば、そこには腰が90度近く曲がり切ったおじいちゃんやおばあちゃんが、泥にまみれて作業をしている姿があります。しかし、都市の消費社会が要求するのは一円でも安いことと、規格通りに並んだ美しい形です。

命を削るような労働と土の時間がコイン数枚で買い叩かれ、買われた先では半分も使われずに捨てられていくことさえあります。この過剰な安さへの執着は、食を単なるコストとしか見ない資本主義の狂気と言わざるを得ません。

こうした過剰な情報、過剰な加工、過剰な価格破壊に塗れた現代社会において、料理研究家の土井善晴先生が唱える「一汁一菜」という姿勢や、フードエッセイストの平野咲子さんがみせる食事への繊細なまなざしは、食の解像度を取り戻す強力な手がかりを与えてくれます。

土井先生が指摘するように、料理とは人間が自然を都合よく支配することではなく、「自然そのものを人間の中に受け入れる営み」です。また平野さんが捉えるように、食事とは単なるカロリー供給所ではなく、人間の感性と愛おしさが交差する文化的な表現空間です。

しかし、食の解像度を取り戻す営みとは、何も複雑な料理を作ることではありません。
むしろ、資本主義が塗りたくった過剰さを削ぎ落とす引き算の行為です。

風土の土から作られた陶器や、木目が刻まれた皿という「額縁」の上に、農家さんが育てた食材が置かれる。その瞬間、お皿の上には無機質なカロリーではなく、人間と自然が交差する小さな風景が立ち現れます。

そして、その素材の味に触れるとき、シンプルな真理に突き当たります。

丹精込めて育てられた鮮やかな野菜も、力強い肉も、海の恵みである魚も、結局は少しの塩で食べるのが一番美味しいということです。

複雑な化学調味料や濃厚なソースで、素材の原型を覆い隠す必要はありません。海水から生まれたわずかな塩と出会うことで、素材自身が持つ生の甘み、苦味、旨味が爆発的に引き出される。

過剰さを削ぎ落とし、素材の持つ解像度をそのまま受け取る舌を取り戻すこと。

それこそが、消費社会の麻酔から目を覚ますための最も力強い特効薬だと思います。

結論:食事とは何か、人間らしさとは何か、豊かさとは何か

すべての人が自ら屠殺を行う必要はありません。土に触れる必要もありません。

しかし私自身、農業に関わり、人間の起源であるアフリカの土の上で命の循環を見つめ、命の現場の匂いを嗅ぎ、器を選び、塩ひとさじで野菜を味わうようになってから、世界は劇的にその解像度を上げました。

命の現場や自給をめぐる実践は、かつて東京のオフィスでPC画面を睨みつけ、味もわからずに効率よくエネルギーを流し込んでいた私自身の姿、そして私たちが無意識に陥っている「自己家畜化」の異常さをあぶり出します。

この体験を経て、一つの大きなの問いに対して、答えの輪郭を少しずつ得つつあります。

「人間らしく食す」とは一体何か。

それは、単なるエネルギー補給として無機質な燃料を流し込むのでもなく、野生動物のように本能のまま無心で喰らうのでもない。
他者の命を自分の身体に通すという動物的で残酷な現実と葛藤を、道具や言葉、様式を通じ、「文化」へと昇華させつつ、感謝と責任を持って引き受けることです。

命の奪取を食欲という本能だけではなく、祈りと様式を持った「文化」として美しく結び直す営みの中にこそ、人間としての尊厳が存在します。

大切なのは、便利なシステムに身を置きながらも、効率や安さという麻酔に流されず、自らの手で食の解像度を引き上げていくことです。

スーパーに並ぶ野菜や肉の背景にある土の匂いや血の温もりに思いを馳せる。
素材に、必要以上に手を加えない。
お気に入りの器で料理を装う。
そして、一口一口、生命の瑞々しさを感じながら、楽しむ。

それだけです。

まずは、動画を見ながら食事をするのをやめてみてほしいです。
それが食の解像度を取り戻す、最も簡単で大きな一歩だと、私は思います。

そして、いつか。

「いただきます。」

その一言に、命の重みと先人が築いてきた文化の祈りが灯り直したとき、私たちは餌を食う「家畜」であることをやめ、自らの生命と文化の尊厳の中で自律的に生きる「人間」としての食事を取り戻すことができるはずです。

参考:

https://inop.co.jp

https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%80%E6%B1%81%E4%B8%80%E8%8F%9C%E3%81%A7%E3%82%88%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E6%8F%90%E6%A1%88%EF%BC%88%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB%EF%BC%89-%E5%9C%9F%E4%BA%95%E5%96%84%E6%99%B4-ebook/dp/B09HH2H3DC/ref=tmm_kin_swatch_0

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https://j-wave.podcast.sonicbowl.cloud/podcast/voice-of-food