『ラブ上等2』の違和感と、穿った目線の先にあるもの
話題になっていた『ラブ上等2』を見終えました。
簡単にいうと、少し社会からはみ出して生きてきたバックグラウンドを持つヤンキーたちの、恋リアです。
ほんとに、凄まじい世界でした。
私がこれまで歩んできた人生とは、生きてきた文脈が違いすぎます。
「そんな些細なことでキレる?」「簡単に影響を受けすぎじゃね?」と、首を傾げてしまう場面の連続でした。
穿った目線で見れば、滑稽で、思わず笑ってしまう瞬間もあります。
外に対してはオラオラと威嚇し、身内に対しては不器用なほど全力で命懸けで守り抜く。
動物的で、剥き出しの愛着行動です。
直接関わりたいかと問われれば、正直そんなことはありません。
おそらく今後の人生でも交わる機会はほとんどないでしょう。正直、怖いし。
しかし、こういう世界線で、こういう倫理観を胸に生きている人間が、この世の中には確かに存在しています。
彼らを見て可哀想だと憐れむのは、違う。
色眼鏡で見て嘲笑うのも、もちろん違う。
ましてや、「ああいう人たちだから」と雑な主語で一括りして思考停止するのも、絶対違う。
この番組が恋愛以上に焦点を当てていたのは、彼らが背負ってきた過去の「傷」でした。
過剰な威嚇や攻撃性の裏側には、家庭環境の崩壊、親からの愛情の欠落、身近な人からの暴力や裏切りといったがありました。
人間誰しも、大なり小なり何かしらの傷を抱えています。
ただ、その傷をどんな形で外の世界へとアウトプットせざるを得ないのか。それは本人の品性や能力の問題ではなく、ひとえに、その人が置かれている環境によって、規定されてしまうのだと思います。
人の、表面化した振る舞いを裁く前に。
その人をそうあらしめている「環境」という根っこに、目を凝らさなければならないと番組を見ていて感じました。

福沢諭吉の盲点と、「自分の努力」という傲慢の解体
しかし、社会にはびこっているのは、この「環境の重要性」を覆い隠し、すべてを個人の資質や努力のせいに還元してしまう自己責任論です。
その近代的な能力主義の象徴とも言えるのが、元1万円札の諭吉さんのあの言葉です。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。(中略)されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。『実語教』に、人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとによりてできるものなり」
身分制度が色濃く残っていた明治初期、生まれではなく個人の努力で未来を切り拓けと民衆を鼓舞したこの言葉は、近代日本の夜明けを支える大いなる希望でした。
しかし、現代の眼、そしてここケニアからこのロジックを見つめ直したとき、前提の抜け落ちを感じざるを得ません。
「賢人と愚人、富める者と貧しき者の別は、学ぶか学ばざるかによって決まる」
本当に、そうでしょうか。
この言葉は、「誰もが平等に学ぶ機会にアクセスできる」という奇跡のような環境が用意されていて、初めて成立するロジックです。
人間という生き物は、私たちが思っている以上に、過酷なほど環境によって規定されてしまいます。
「私は人一倍努力して頑張ってきたから、まともな大人になれたんだ」
もし自分がそんなふうに胸を張るとしたら、それは無知であり、傲慢です。
いま自分が大きな不満もなく、ある程度まっとうに生活できているのは、決して自分の力によるものではありません。たまたま暴力のない家庭に生まれ、教育の機会を与えられ、安全な社会のインフラに守られてきたという、恵まれた環境が背中を押してくれたおかげに過ぎません。
ここケニアの街を歩いていても、家族から見捨てられたり、親を亡くしたりして、路上でボロボロの服を着て物乞いをしている子どもたちに日常的に出くわします。 彼らが努力していないわけではありません。生き延びるために、毎日必死で頭と身体を動かしています。
畑を回れば、農家さんたちは一生懸命に土を耕しています。
その真摯な背中の前には、「情報がない」「学校へ行くお金がない」という過酷な環境の壁が立ちはだかっています。
最初から、スタートラインの環境が違いすぎる。
自分が向こうの立場だったら…のような「もしも」を考えて、ゾッとすることもあります。
そう考えると、自分の頑張りなんてものは、環境という巨大な土台の上に乗っかった、ほんのわずかな誤差のようなものです。
「偶々生きている」私と、全能感の崩壊
この「人は環境に規定される」という真理は、いま、ケニアの田舎に身を置いている私自身にも、常に、現実として私の前に立ちはだかってきます。
当たり前ですが私は、この地ではどこをどう歩いても目立つ外国人です。外国人だからお金を持っていると思われ、価格をふっかけられます。
英語が通じない相手も多く、育ってきた常識も根本から異なるため、コミュニケーションが思い通りにいかないことなんて日常茶飯事です。
そして、電気が止まり、蛇口から水が出なくなるなんてことはほぼ毎日起こります。
そんな環境下で、個人がいくら努力や気合を振りかざしたところで、できることは正直、限られています。
1年近く走ってみて、限界を身に染みて理解しました。
しかし、そんな環境の中で、失敗や苦労を重ねながらも、今こうして倒れずに生活できていること。
手元にいくつかの小さな手応えを掴み、プロジェクトを少しずつ前へ進めることができていること。
これは、私が優秀だからでも、人一倍努力したからでもありません。
本当にたまたま、周りの環境に恵まれていたからに過ぎません。
知らない知恵を、農家さんたちが快く教えてくれたから。
不当な価格をふっかけられそうになった時、同僚が前に立って代わりに交渉してくれたから。
自分一人ではどう足掻いても進められないプロジェクトに、現地のオフィサーたちが腕をまくって力を貸してくれたから。
断水で途方に暮れていれば大家さんが重い水タンクを運んでくれ、病みそうになった夕暮れには農家さんからの前向きな電話に救われたから。
そもそも、怪しい外国人の私を地域の中に受け入れ、一緒に同じ汗を流してくれたこと自体が、途方もない環境の恵みです。
私は自分の力で立っているのではなく、恵まれた環境のおかげで、たまたま、生かされているだけです。

ほぼ農家さんからのいただき物の野菜で、おそらく全部で材料費50円くらい。ありがてえ
他力本願に生きる
だからこそ、自分一人で何とかしようと抱え込むことを、手放すことにしました。
人の力を借りる。誰かの知恵に頼る。信頼できる仲間に現場を任せる。
そして、自分もまた、彼らの力になれる場面で持てるすべてを差し出す。
仏教には、「他力本願」という言葉があります。
「他人任せでサボること」という意味で使われがちですが、本来の教義は異なります。
自らの力(自力)への過信と執着を捨て去り、阿弥陀仏の計らい(他力)という大いなる力に、全身全霊で身を委ねること。
今の私は、ケニアの農家さんや同僚たち、そして周囲の仲間の力に、身を委ねて活動を進めています。
頼りきり、甘えきりです。
それでもいい、と思っています。
いや、それこそが一番いい形だと思っています。
自分でできる限り、頭と身体をフルに使って動く。
その上で、誰かに託す。 助けてもらったら、今度は自分が誰かに手を差し伸べる。
そうやって知恵と力を循環させていくことでしか、一人きりでは絶対に届かない遠い場所へ辿り着くことはできません。
人は環境に規定される。
自分が、環境という他力によって生かされている存在であることを忘れず、謙虚に、そして感謝しながら。
残り14ヶ月も頑張ります。