【ケニア派遣30日目】「生きる」詩人と、「生き延びる」記者。資本主義の荒野で、僕らはどう戦うか。

JICA海外協力隊
JICA海外協力隊ケニア派遣ナイロビ研修

1ヶ月という節目、24分の1の通過点

今日は語学学校でスワヒリ語のテストを受け、スワヒリランチを囲みました。 テストは難しくありませんでした。短期間でよくここまで詰め込んだなと思います。明日のプレゼンが終われば、ナイロビ生活も終わりがすぐそこです。

さて気づけば、あれから1ヶ月。2年間の任期のうち、24分の1が終わりました。体感としては、あっという間です。 ケニアの生活には慣れ、胃腸の調子も良好。そんな日常の中で、ふと車窓から見える景色や、すれ違う人々の姿に、うっすらですが、この国の「輪郭」が見えてくるようになりました。

都市の輪郭:階層と、依存する経済

ナイロビの街は、本当に発展しています。 スーパーに行けば、醤油や味噌といった日本の調味料も普通に手に入りますし、値段もそこまで高くはありません。日本食に困ることは、正直なところ全くないでしょう。 この発展がもたらす世界との距離の近さや、圧倒的な便利さ。それは間違いなく、この街の持つ魅力的な一面です。

しかし、街を見渡せば、そこには明確な「階層」が存在します。 昼間から道端で寝ている人と、パリッとしたスーツを着て歩くビジネスマン。身なり、肌の艶、髪の整い方を見れば、その人がどの経済層に属しているか、大体わかってしまう。

金持ちもいれば、貧しい人もいる。それはどこにでもある格差かもしれません。しかし、ここナイロビでは、その差が「変えられないもの」のように感じられてなりません。 日本よりも遥かに強い部族や家族への帰属意識、色濃い世襲の傾向。さらに、富裕層の多くを占める南アジア系や欧米系の人々。 お金のあるところにお金が集まる構造。ここに革命を起こすのは容易ではないでしょう。

むしろ、「国際協力」という外からの力が一部にパワーを集約させ、富を築き、物価を上げ、都市化を促進し、結果として新たな「貧しさ」を生み出しているのではないか。 外からの発展は、どこまで行っても「西洋化」であり、欧米至上主義の域を出ないのではないか。そんな疑念さえ抱いてしまいます。
先日訪れたバラ園も外資系でした。経済の根幹が、どこか他所に依存している危うさを感じずにはいられません。

その流れに拍車をかけるのが、「お金を払えば何でもOK」という文化です。
賄賂は多い。けれど裏を返せば、お金さえあれば不可能なことも可能になる。それが、お金の力をさらに強大にしています。

また、ケニアが世界に誇る「M-PESA」というリープフロッグ現象。確かに便利です。キャッシュレス化は日本より進んでいます。でも、冷静に見れば、その機能はPayPayと変わりません。単体の技術で見れば、すでに追いつかれています。それなのにM-PESAの手数料が異常に高いのは、Safaricom一強弊害であり、健全な競争が働いていない証拠です。圧倒的な強者からの搾取の構造が垣間みえます。

この経済発展の先には何があるのでしょうか、、、

「余白」なき都市と、豊かな田舎

以前、マサイマラに行った時に感じたのは、圧倒的な「余白」と「余裕」でした。

対して、地方都市やここナイロビには、「余白」がありません。
道には露店が隙間なく並び、川にはゴミが捨てられ、道路は車で埋め尽くされる。
人の呼吸は荒く、家畜はゴミを漁る。 そこにあるのは、生き急ぐような焦燥感です。

photo by 同期隊員

一方、田舎町はどうだったか。
隣の家は見えず、大地は草で覆われ、人々は建物の前でゆったりと談笑し、動物は自然の草を頬張る。お金がなくても、そこには確実に「余白」があり、「余裕」がありました。

photo by 同期隊員 

「生きる」ことと、「生き延びる」こと

歌人の穂村弘さんは、人間の中には二種類の人格がいると言います。 社会的な成功や効率を求めてサバイブする「生き延びるための記者」と、今この瞬間の世界を味わい、感動する「生きるための詩人」。

ナイロビのような都市で人々が必死になっているのは、間違いなく「生き延びる」ことです。 お金を稼ぎ、効率を上げ、競争に勝つ。それは、資本主義というシステムの中で生存するための術です。そのために「余白」を削り、「詩人」としての時間を犠牲にしている。

対して、田舎の人々はどうでしょう。 彼らは、資本主義的な意味で「生き延びる」ことには長けていないかもしれません。効率は悪いし、金銭的な豊かさはない。

でも、彼らは強烈に「生きて」います。 最低限食べて、寝て、そして人と対話する。大事な人と、大事な時間を共有する。 そこには、「生き延びる」ための焦燥感はなく、ただ「生きる」ことの純粋な喜びがあるように見えました。

「かわいそう」と思ってしまう傲慢さ

協力隊としてここに来たけれど、ふとした瞬間に強烈な葛藤に襲われます。
彼らの生活を見て、無意識に「かわいそう」と思ってしまう自分。

その感情こそが、私がどこまで行っても経済的なアッパー層の価値観で生きてきた人間であることの証拠であり、本当の意味で彼らを理解することなどできないのではないかという絶望でもあります。

彼らを「支援」するなんて、なんと傲慢なことだろう。「生きる」ことの達人は、むしろ彼らの方であり、幸福度で言えば彼らの方が上かもしれないのだから。
国際協力とは、本当に必要なのだろうか。国際協力とは、本当に必要なのだろうか、、、

このゲームの中で、どう戦うか

とはいえ、世界の大きな流れはあまりに強く、資本主義やグローバリズムの流れは不可逆的です。 3年前に来た時よりも、明らかに人は増え、街は肥大化しています。お金がないと生きられないエリアは、確実に広がっています。

この構造をひっくり返すことができないなら、この「ゲーム」の中でどう戦うかを考えるしかありません。

たまたまですが、私は日本で1年半、企業のマーケティング戦略を分析し、改善案を考えてきました。 「生き延びる」ための資本主義というゲームのルールに関しては、彼らより少しだけ先にいる自負があります。

もし、任地の人々が「このゲームの中で戦いたい(豊かになりたい)」と願うなら、私はその武器を提供し、一緒に戦いたい。 逆に、ゲームの外にいたいと願う人たちなら、例えば農業の魅力を子供たちに伝えるような、ゲームのルールに縛られない、「生きる」ための活動を共にすればいい。

国際協力という大きな枠組みの正解はわかりません。
ただ、目の前の人の生活を見て、勝手にこちらの尺度で良し悪しを決めつけないこと。
そして、「下手に動いて、彼らの生活を壊さない」こと。
「何もしない」という選択肢もまた、協力隊としては勇気ある大きな選択の一つなのだと、今は思っています。

1ヶ月目の葛藤と、これから

ナイロビでの待機期間、時間があるせいで、協力隊員としてのあり方や、本当にやるべきことは何なのか、必要以上に考えすぎてしまったのかもしれません。今の葛藤や悩み、まとまりのない長文を書き連ねてしまいましたが、これが紛れもなく、今私が思っているリアルな現在地です。

これから現場に出て、何を見て、何を思い、どのように考えが変わっていくのか。
その変化も含めて、楽しみにしています。

コメント

  1. 田中沙英 より:

    物事を見るときにどの尺度で見るのか、それによって捉え方が180度変わりうる。本当に難しいですよね。今、やすおさんは誰かの人生を変えることができる力を持っているからこそ、色々考えることがあるんだろうと思います。

    誰かの受け売りですが、それは心の筋肉痛で、さらに自分を強く成長させるための大切で尊い痛みだと思います。

    偉そうなことを言ってしまったかもしれませんが、
    いつも本当に勇気づけられています。応援しています。

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