【ケニア派遣221日目】システムの盲信と「疑うワンステップ」。信号も住所もないケニアで自覚する、自分で判断する尊厳

ケニア派遣221日目。連日の断水にストレスを募らせながら、アニメ『PSYCHO-PASS』をフックに「システムの盲信」を深く考察。日本の信号やスマホ依存に潜む危うさと、すべてを自分の五感で疑い比較するケニアの日常を対比。さらに、SNS上で見られる偏狭な外国人ヘイトに対し、現地の生きた交流から「極端にならないための物差しの多様性」を綴ります。

溜まっていく食器と、世界に溢れる新しいコンテンツ

土曜日、今日は一歩も外に出ずに家の中で過ごす引きこもりを選択しました。

ただ、最近は本当に断水が多く、昨日から引き続き今日も蛇口から水は流れてきませんでした。1週間のうち半分以上は断水と停電に見舞われているのが、現在のインフラの日常です。 この不条理な不便さにもずいぶんと適応してきたつもりですが、それでも、シンクの中に少しずつ溜まっていく汚れ物の食器を見つめていると、それと比例するように、胸の中にイライラとした微細なストレスが溜まっていくのを自覚します。

そんなストレスをやり過ごすように、今日は新クールの始まったアニメの数々をじっくりと漁って過ごしました。 次から次へと、この世界には新しくてハイクオリティなコンテンツが生み出され続けている。そのすべてを網羅して追うには、人間の人生はあまりにも短く、時間が決定的に足りません。不便な暮らしの傍らで、そうした膨大な創作物にいつでもアクセスできるというのは、現代に生きる私たちの、とても幸せな特権だと思います。

アニメを観進めるなかで、最近、以前大好きだった『PSYCHO-PASS』という作品を少し見返していました。 システムが人間の精神や職業適性、すべてを管理して判断を代行してくれるディストピア。 その洗練された管理社会の不気味さを見つめているうちに、「私たちはいつの間にか、世の中の出来上がったシステムを無意識のうちに盲信しすぎているのではないか」という、違和感を抱き始めていました。

信号のない道路と、人を頼る「疑うワンステップ」

例えば、今の日本。街を歩けば、驚くほど多くの人が「ながらスマホ」をしています。 スマートフォンに視線を落とし、耳にはワイヤレスイヤホンで音楽を流しながら、一切周囲の音を聞かずに道を渡る。 信号が青であれば、車は絶対に止まるはずだ、と信じ切っているからこそ、自分の目で左右を確認することもほとんどせず、ただシステムを盲信して足を踏み出しているのです。

しかし、もしその信号が、あるいは止まるはずの車が、システムのエラーで裏切ったら。その人は命を落とすことになります。

一歩、ここケニアの道路に目を向けると、状況は全く異なります。 基本的には信号なんて便利なシステムは存在しません。歩行者が道路を渡る際、頼れるのは信号というルールではなく、自分の「目」と「耳」、そして今ここで迫ってくる車のスピードを予測する自分自身の判断だけです。車が急に突っ込んでくるかもしれないという、システムへの健全な「疑い」を常に持ちながら生きています。

さらに、昨日記述したようにこの地方には明確な住所が存在しません。 Googleマップのナビゲーションを開いても、最後の数キロメートルは正確な道を示してくれない。だからこそ、最終的な目的地へ辿り着くためには、道行く人を見つけては直接声をかけ、聞き込みをしながら進む必要があります。

しかも、その人づての情報は、当然のように間違っている(勘違いしている)ことを大前提にしています。 そのため、私たちは1人の言うことを鵜呑みにせず、2人、3人と複数人に同じ質問を重ね、返ってきた情報を自分自身の頭で比較し、統合して進べき道を選び取っていく。 AIだって、このケニアの田舎のローカルな生活データはほとんど学習していません。検索エンジンの冷たい光に頼るのではなく、生きた人間に頼り、それを自分の頭で検証する。

「本当に正しいだろうか」と、一度立ち止まって考える。

この「疑う」というワンステップ。どんどん便利になっていく現代社会において、この人間として最も重要だったはずのプロセスを、外側のシステムにそっくりと明け渡してしまっているような気がしてなりません。

『PSYCHO-PASS』の作中では、シビュラシステムによって、人間の魂の健康状態や犯罪に走る危険性がすべて計測されています。 人々は、システムが弾き出す「犯罪係数」というたった一つの数値や、精神の安定度を示す「色相」という単一のカラー基準に、自分たちの生きていく指針のすべてを委ねています。数値が低く、色相がクリアであればそれだけで「善い人間」とされ、数値が少しでも悪化すれば、その人の人格や文脈、事情などは一切考慮されずに「社会のゴミ」として速やかに排除・治療されてしまう。

私たちが今の日本で無意識にやっていることも、これと本質的には同じなのではないでしょうか。

インターネットの口コミサイトの星の数だけで店の価値を判断し、AIによって選択を促され、自分の頭で味わう前に判断を終えてしまう。 「犯罪係数」や「色相」のように、外部のシステムが提示した分かりやすい単一の物差しに、自らの「判断する労力」を丸投げしてしまう心地よさ。 自分の中の判断基準や多様なものさしが失われていく。それはまさしく、『PSYCHO-PASS』が警告していた、人間としての尊厳や思考を放棄した社会の危うさに繋がっているように思えます。

極端な外国人ヘイトと、ケニアのムスリムの温かさ

そうした自分のものさしを放棄した、盲信のシステムの最も歪んだ形が、最近SNSのタイムラインでよく目にする、日本人による過剰な外国人ヘイトや、極端なナショナリズムの動きなのだと思います。

正直に言って、それらの書き込みや言動を眺めていると、不快極まりない気持ちになります。 あまりにも彼らの持っている「判断の基準」や「ものさし」が少なく、そして狭すぎる。

「外国人は危険だ」 「ムスリムは過激で危ない」

記号化された一部の情報だけをインターネットを通じて盲信し、それをすべての当事者に当てはめて極端なレッテルを貼る。これもまた、誰かが決めた「犯罪係数」のような画一的な基準だけで、他者の文脈を無視して一括にジャッジしているのと同じです。

しかし、実際にケニアの地方部に身を置き、多様な人々と日常的に関わっている私からすれば、そのレッテルがいかに暴力的な偏見であるかがよく分かります。

ここマトゥングの周辺にも、たくさんのムスリムの方々が暮らしています。私がこれまで出会ってきた現地のムスリムの皆さんは、特に良い人が多いという印象を受けています。 誰に対しても利他的で、親切で。そして、こちらの境界線を尊重してくれて、余計なしつこさがない。 お腹がはち切れそうになるほどの全力のご馳走で歓迎してくれたのも、彼らの底抜けの優しさでした。

もちろん、ムスリムと一口に言っても、人それぞれの個性があり、多様な人々がいます。 全員が完璧に善人なわけではない。

大切なのは、特定のラベルだけで物事を決めつけず、「極端にならないこと」なのだと思います。

判断と選択という、人間に残された最後の尊厳

極端な思考の罠に囚われないために。

私たちは、インターネットの冷たい言説だけに頼るのをやめ、自らの足で動き、様々な生の情報や異なる文化に触れる必要があります。 自分の引き出しの中に、異なるアプローチの「物差し」をたくさん蓄えておくこと。

そのために、私はこのケニアという全く異なるOSを持った国に身を置き、現地の人の声を聞く。そして、様々な素晴らしい作品に触れ、多国籍な文化や歴史を持つ人々と対話を重ねる。 それは、私自身の判断基準を、より豊かで、より多角的なものにするための、最も確実で大切なアクションなのだと実感しています。

自分の頭で判断すること、そして自分の意思で選択することは、人間が人間らしく、尊厳を持って生きるための最後の砦だと私は思います。

さらにその判断と選択の材料を、自分の心の中にたくさん持っていること。
それこそが、情報や単一の評価システムに踊らされない「正しさ」であり、私たちの人生の「豊かさ」に、確実な地続きで繋がっていくのだと思います。

食器は溜まっているし、水も出ない。
でも、今日も自分の頭の中にまた一つ、濁りのないクリアな物差しを編み上げることができた。

明日からも、この自分の内側にある判断基準を大切に守りながら。
マトゥングの日常を、私自身の歩幅で一歩ずつ耕していきます。

水が出なくて洗い物が大変でも、器によそうだけでご飯は少し美味しくなるように思います。