幸福の最低限は、蛇口から水が流れること
今日はお腹のジリジリとした痛みが落ち着き、身体の不快感からは解放された一日でした。
……しかし、「水」が出ませんでした。
電気が不安定で、スマートフォンの充電やWi-Fiが使えず、楽しみにしているワールドカップの試合が観られない夜があります。それは悔しいけれど、まだ許せる不便です。 でも、水が出ないことだけは、どうしても心に直接ダメージを与えてきます。
トイレを流す、食器を洗う、泥のついた身体を洗い流す。
それらの当たり前の営みが、水が一本止まるだけで、途方もなく困難でストレスに満ちた作業へと変貌してしまいます。
生きる上での最低限の幸福、それは、蛇口をひねれば水があること。
断水が起こるたびに、私はこの真理を骨の髄まで思い知らされます。私たちが日本で当たり前に享受していたインフラは、便利なサービスなどではなく、人間が尊厳を持って生き、幸福を感じるための「絶対的な土台」であるのだと、静かな部屋で乾いた手を見つめながら実感しています。
小説を紡ぐという、この上なく「無駄」で「豊かな」時間
日中は、昨日から始めた小説のプロットを広げ、執筆の作業に没頭していました。
「この場面では、どんな言葉を使えば私の見たあの光景が伝わるだろうか」
「この登場人物の揺らぎを表現するには、どの単語が一番しっくりくるだろうか」
ああでもない、こうでもないと、ノートとPCを前にして、一人で何時間も表現の迷路を彷徨い続ける。 客観的に見れば、生産性はゼロに等しい作業です。全然、進まないまま、気づけば1時間が経っていることすらあります。何の実績にもならないし、お金を稼げるわけでもない。
ふと、「なんて無駄な時間を過ごしているんだろう」という冷めた思いが頭をよぎることもあります。
しかし同時に、これほどまでに贅沢で、豊かな時間も他にないのではないか、とも思います。
目の前の締め切りや、誰かから課された定量的な評価に追われることなく、ただ自分の内側にある世界と真摯に向き合い、言葉を丁寧に紡ぎ出していく。 一日中、外に出て太陽の光をほとんど浴びないまま、部屋の中で思考を泳がせるだけの休日。
こういう日があってもいいか。
不便なケニアの田舎の静寂が、私の頭の中に、新しくて静かな豊かさの余白を与えてくれているような気がします。
サイクルのように訪れる落ち込みと、一人で生きるリアル
このブログを毎日読んでくださっている方には、行間の温度からなんとなく伝わっているかもしれません。
最近の私、ちょっとメンタルが落ち込みがちです。
何か決定的な大失敗があったわけでも、誰かと激しいトラブルを起こしたわけでもありません。しかし、定期的に心身のエネルギーがすっと抜けて、世界が少し灰色に見えてしまうような落ち込みの波がやってきます。 まるで、一定の周期を持った「サイクル」のように、それは忘れた頃にやってきます。
一人で海外に身を置き、ただでさえ言語や文化の壁がある中で。 その上、水が出ない、電気も止まる、約束は簡単に破られる、揶揄われるといった、自分の力が一切及ばない不条理で不安定なインフラに囲まれて生きる。
それは、口で言うほど簡単なことではありません。とてもタフなサバイバルです。どれだけタフに、しなやかに適応してきたつもりであっても、目に見えない小さな微震のようなストレスが、身体の奥底に少しずつ澱のように溜まって、臨界点を超えそうになっているのかもしれません。
心が完全に爆発して、活動自体が嫌いになってしまう前に。
自分の弱音を否定せず、しっかりと休むタイミングなのだと、自分に言い聞かせています。
近いうちにフィールドから一歩離れて、ナイロビかどこか別の都会へとエスケープしようかと思います。
不便な日常のスイッチを一時的に完全にオフにして、温かいお湯のシャワーを浴びて、誰かに作ってもらった温かくて本当に美味しいご飯を、何も考えずに口に運ぶ。 そうやって、頑張ってきた自分をトコトン甘やかして、心のバッテリーを再び満タンに充電してあげる。アグリビジネスの持続可能性を考える前に、まずは私自身の持続可能性を最優先でケアしてあげる。
それが、今の私に最も必要なネクストアクションです。
自分の弱さも、不器用なスランプのサイクルも、すべてを等身大で抱きしめながら。
少しスピードを緩めて、明日からも日々を丁寧に歩んでいこうと思います。