【ケニア派遣124日目】メキシコの漁師とサルトルの「自由の刑」。ケニアの余白で考える働く意味と哲学

カカメガでの活動
カカメガでの活動

朝のランニングと、クリエイティビティの余白

今日は朝からランニングに出かけました。

まだ日が完全に昇りきっていない薄暗い中、冷たい空気を切って走る。すれ違う地元の人たちにスワヒリ語で挨拶を交わしながら、時には不思議そうな目で見られながら走りました。 やっぱり、体を動かして汗を流すのは最高に気持ちが良いものです。

午前中はそのまま運動の余韻を楽しみつつ、スワヒリ語の勉強をし、映画を観てリラックスして過ごしました。 そして午後からはPCに向かい、これから本格始動するマッシュルームプロジェクトのマニュアル作成や、同期隊員と一緒に仕掛けようとしていることのアイデア整理などを進めました。

ケニアで生活していると、時間(余白)がたっぷりあるおかげで、アイデアが色々と湧いてきます。 インフラの不便さや異文化の壁など、ただ生活しているだけで圧倒的な量のインプットがあり、それをゆっくりと思考・整理する時間もある。クリエイティビティが非常に発揮されやすい環境なのだと思います。

しかし、そのアイデアを「形にする」となると、途端に難易度が跳ね上がります。 なぜなら、人を動かさなければならないからです。日本とは人が動く原動力が根本的に違いますし、ケニア特有の「Pole Pole(ポレポレ:ゆっくり)」の精神もある。焦らず、でも着実に巻き込んでいく方法を模索し続けています。

メキシコの漁師と「暇」の享受

夜は、今日考えたアイデアの壁打ちも含めて、同期隊員と色々と語り合いました。

中でも一番印象に残り、深く考えさせられたのが「暇(余白)」の使い方についての話題です。

私は「暇になると、どうもネガティブな感情が出てきやすくなる」という悩みを打ち明けました。すると同期からも「わかる。やっぱり動いていた方がメンタルにいいよね」と共感の声が上がりました。

一方で、こんな意見も。
「暇を『暇』として純粋に享受できない(楽しめない)のって、どうなんだろう?」

私自身、働くことは好きだし、誰かの役に立つことは素晴らしい。でも、生産活動だけを目的に生き、それが唯一の生き甲斐になってしまうのは、本当に豊かな人生と言えるのでしょうか。 余裕があるなら、やることがないなら、ただその余白を楽しめばいいじゃないか。

その時、有名な「メキシコの漁師とアメリカ人旅行者」の寓話を思い出しました。

【メキシコの漁師の話(要約)】
ある海辺で、のんびり昼寝している漁師に旅行者が聞きました。
旅行者「なぜもっと働かないんだ?」
漁師「十分暮らせてるからね」
旅行者「もっと魚を獲って金を貯めればいい。船を増やして、会社を作って、大金持ちになれる」
漁師「それで?」
旅行者「そしたら老後は仕事を辞めて、海辺でのんびり暮らせるさ」
漁師「……それ、今の私じゃないか?」

「幸せになるために働くはずなのに、その幸せ自体を遠い未来へ後回しにしていないか?」という、資本主義の盲点を突く鋭い問いです。

サルトルの「自由の刑」とリベラルアーツ

とはいえ、「じゃあ一生昼寝して過ごすのが正解か」と言われると、それも少し違う気がします。 やはり、人間は社会的動物であり、誰かの役に立つこと(社会との繋がり)の中に幸福を見出す生き物であることも間違いないからです。

だからこそ、「誰かに決められていない自由な時間」をどう使うかは、極めて難しい問題になります。 フランスの哲学者サルトルが残した「人間は自由の刑に処せられている」という言葉は、まさにこのことを見事に言い表していると思います。 「自由に生きていいよ」と放り出されることは、すべての選択と責任を自分自身で負わなければならないという、ある種の過酷な刑罰でもあるのです。

これからの時代、一つの会社に新卒から定年までずっと勤め上げるのが「当たり前」ではなくなっていくと言われています。独立する、副業をする、複数のコミュニティに属するなど、働き方や生き方は少しずつ多様化しています。そうなると、誰もが嫌でも「自分自身の人生の目的を、自分で選ばなければならない」局面に立たされます。

そういう「選択が迫られる時」にこそ、歴史や哲学、文学といった「リベラルアーツ」と呼ばれるものが、自分の軸を定めるための羅針盤として凄まじく重要になってくる気がしています。 歴史から人間の普遍的な営みを学び、哲学から「いかに生きるべきか」の問いを借りる。 残念ながら、日本の教育においてその分野は軽視され、遅れているように感じていますが……。

ケニアの夜の暗闇の中で、メキシコの漁師に思いを馳せ、自分の人生の舵取りについて深く思考を巡らせた1日でした。

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