雨季の洗濯と「手絞り」の戦い
今週末は完全に「引き篭もる」と決めていたので、今日は朝から気合を入れて、シーツや毛布などの大物を洗うことにしました。
しかし、外を見ると昨晩の大雨の影響で、あたり一面に深い霧が立ち込めています。 しばらく待って少し晴れ間が見えてきたタイミングで、一気に洗って干しました。 結果は……案の定、厚い毛布は乾き切りませんでした。
本格的な雨季の到来です。当然ですが、ここには乾燥機はおろか、全自動洗濯機の「脱水機能」すらありません。 いかに自分の腕力だけで「キツく絞れるか」。 それが、生乾きを防ぐ唯一にして最大のポイントになります。自分の握力と背筋を総動員して毛布を絞り上げながら、「洗濯機と脱水モーターを発明した人は本当に偉大だな……」と、文明の利器のありがたみを噛み締めていました。

「何でもいいよ」の罪深さと、ウガリの幸福
洗濯の後は、明日以降の停電に備えて、多少日持ちする料理の「作り置き」に精を出しました。
最近、自分の頭の中が「仕事のこと」か「食べること」の二つでほとんど占められている気がします。 「昼ごはんを食べ終わったら、夜は何を作ろうか」 「明日マーケットに行ったら、どの野菜を買って、どう調理しようか」 献立を考えている時間が、生活の中でかなりのウェイトを占めています。
自分で毎日料理をするようになって、初めて気がつきました。 実家にいた頃、親からの「今日、何食べたい?」という質問に対して、適当に「何でもいいよ」と返していた過去の自分。あれは、とてつもなく罪深い返答だったなと。
先日、そんな自炊の苦労を職場の同僚に話してみました。すると彼女は、笑いながら、こう言いました。
「そんなの、全然頭使わないよ。だって私たちは毎日、同じだから。ウガリ、ウガリ、ウガリ……」
ケニアの家庭料理は、主食のウガリ(トウモロコシ粉を練ったもの)に、少しの地元野菜(スクマウィキ・キャベツ・クンデなど)や豆、魚、肉を、焼くか煮るか、極めてシンプルな固定メニューです。
「毎日同じものを食べる」ということに疑問を持たず、それで十分に満たされているのなら、それはそれで一つの「完成された幸せ」の形なのかもしれません。 とはいえ、私は料理をして味を工夫するのが純粋に楽しいので、献立に頭を悩ませる今の生活をこれからも楽しんでいこうと思います。

オクラとナスのポン酢敢、麻婆茄子。
ディズニーランドという「余剰の塊」
午後は、来週末のイースターの連休に向けた予定を調べたり、映画を観たりして、リラックスして過ごしました。
その中で、YouTubeのおすすめに上がってきたアナハイムのディズニーランド特集の動画を見ました。
画面の向こうに広がる光景を見て、強烈な違和感と興奮を覚えました。
今、自分がいるケニアの田舎町と、完全に”真逆”の世界だな…
ディズニーランドは、人間のイマジネーションと資本によって、徹底的に計算し尽くされた「アーキテクチャ」の世界です。一方、私が今いるのは、雨が降れば停電し、一方でその雨だけを頼りに作物を育て、自然の脅威・恩恵と隣り合わせで生きる、剥き出しの世界。
どちらが良い悪いという話ではありません。どちらにもそれぞれの良さがあります。
ただ、泥臭い現実の中で生きている今だからこそ、画面越しのディズニーランドが、日本で見ていた時以上に輝いて、魔法のように見えた気がします。
以前、ケニアの同僚たちにディズニーランドについて説明しようとましたが、 ほとんど通じませんでした。結局「遊園地」という言葉以上のことは伝わっていなかったと思います。
そもそも、ディズニーランドとは「余剰の塊」です。 生きるために絶対に必要なものではない。衣食住が完全に満たされたその先に生まれる、途方もないスケールの「遊び」と「エンターテインメント」。
毎日のウガリで幸福を感じ、「今日を生きること」に全力な彼らのコンテキストに、あの余剰の極致を翻訳して伝えるのは、至難の業です。
毛布の生乾きの匂いを感じながら、遠い魔法の国に思いを馳せる。
引き篭もりの休日も、なかなか有意義な思考の旅になりました。


コメント