折り返し地点を過ぎた、静かな日曜日
今日は一日オフ。 昨日、一昨日と慌ただしい日が続いたので、今日は訓練所の中でゆっくりと過ごすことにしました。
午前中は、ドジャースの試合を横目で見ながら、英語のライティングに集中。気づけば、ノート4ページ分も書き進めていました。瞬発力にはまだまだ課題がありますが、時間をかければ、自分の考えを英語で表現する力は、少しずつついてきた実感があります。
午後は、スワヒリ語の復習と、来週に迫った講座テストの勉強を。 JICAの事業概要、安全管理、健康管理…。これまで受けてきた講座が試験範囲です。このテストを通らなければ修了できないので、しっかりと資料を見返しました。
レポート提出、そしてテスト。カレンダーは、もう11月。 訓練の「終わり」が、いよいよ現実味を帯びて近づいてくるのを感じます。残された時間で、ここでしかできないことを、一つもやり残さないように。一日一日を、大切に過ごさなければなりません。
障がいを作り出しているのは、誰か
夕食後、視覚障害者の感覚を学び体験する自主講座に参加しました。そこで得た学びは、重く、大切なものでした。
私たちは、「視覚障がい」と聞くと、一つの決まったイメージを思い浮かべてしまいがちです。しかし、その特徴は一人一人全く違う。それはハンディキャップではなく、ただの「特徴」に過ぎないのだと、講師の方は言います。
そして、彼らは常に「大変な中」を生きているわけではない。それが彼らにとっての「日常」であり、「当たり前」だから。 「障がい」を作り出しているのは、当人ではなく、それを受け入れられない社会の「環境」や、私たちの「認識」の方なのだと。
その言葉は、ヒロアカの中で死柄木弔が言っていたセリフに重なりました。
私たちは、自分がいかに小さな解釈の世界の中で生きているかを、無自覚なまま過ごしている。そして、その身勝手な解釈を、他者に平気で当てはめてしまう。傲慢なことだ。
これは、国際協力にも全く同じことが言えます。勝手にこちらの「理想」を抱き、現地の「課題」を見出し、助けた「つもり」になる。それは、ただの傲慢です。
相手の日常を、相手の当たり前を、私たちは何も知らない。 まずは「理解」から始める。 障がい者支援の現場から教わったその言葉は、私がケニアで活動する上で、決して忘れてはならない、一番大切なことだと痛感しました。



コメント