ケニアより、フットボールを見る。── 政治、商業、そしてアイデンティティが交錯するフットボールの現在地

序章:ナイロビの熱気と、世界の調和・分断

スペイン代表の歓喜と、リオネル・メッシの涙で今シーズンは幕を閉じました。

この半年間、私は東アフリカ・ケニアの地から、世界最高峰のプレミアリーグ、ラ・リーガ、UEFAチャンピオンズリーグ、そして熱狂のFIFAワールドカップやケニア国内リーグに至るまで、あらゆるフットボールを観戦してきました。

フットボールが日常の至る所に文化として、あるいは生活の術として深く根付いているケニアで見つめていると、画面の向こうで繰り広げられるドラマが、単なるスポーツの枠組みを遥かに超えた巨大な社会構造の縮図として立ち現れてきます。

商業としてのフットボール。
政治の道具としてのフットボール。
そして、国家や人種、格差を超えて人々を繋ぎ止める「言語を超えた言語」としてのフットボール。

世界中に張り巡らされた資本主義とグローバリズムの波は、フットボールを史上最大規模のエンターテインメントへと押し上げました。
しかしその陰で、かつてないほどの分断や政治利用、そして特定の富裕層による道楽化が進んでいるのもまた動かしがたい事実です。

今、アフリカの地からこの巨大な構造を見つめ直し、フットボールが持つ「光と影」を紐解いてみたいと思います。

第1章:政治の影と「国家」のグラデーション

1. 巨大イベントが引き寄せる「政治利用」の実態

現代のワールドカップやオリンピックなどのメガイベントが、国家の威信をかけたソフトパワーの誇示や政治的宣伝の場(=スポーツウォッシング)として利用されることは、もはや日常茶飯事となっています。

今回のワールドカップにおいても、その歪みは枚挙に暇がありませんでした。

  • 領土問題や覇権の主張: 準決勝の試合後にピッチ上で繰り広げられたアルゼンチン代表による領土主張のパフォーマンスや、トロフィー授与式に介入する政治指導者の姿。
  • 対立構造の持ち込み: ベルギー代表監督によるアフリカ勢への差別的発言、アメリカ人選手の出場停止処分を巡る不透明な不信感、そしてイラン代表に対するビザ発給問題。

これらは単なるアクシデントではなく、国家間の地政学的対立や覇権主義が、ピッチという聖域にそのまま持ち込まれている証左です。

SNSを開けば、多様なルーツを持つ欧州代表チームに対するヘイトスピーチや、AIによって巧妙に生成されたフェイク画像・動画による偏見の拡散が苛烈を極めていました。テクノロジーの進化が、人々の「分断」を加速させるツールとして悪用されている現実に、強い危機感を抱かずにはいられません。

2. 「平和の触媒」としての歴史的ファクト──ペレとナイジェリア内戦

しかし、歴史を振り返れば、フットボールが政治の醜悪さを凌駕し、人々に奇跡的な連帯をもたらした瞬間も確実に存在します。

最も象徴的なエピソードが、1969年、フットボールの王様ペレを率いるサントスFCがアフリカ遠征に行った際の話です。当時、ナイジェリアはビアフラ戦争と呼ばれる惨烈な内戦の渦中にありました。しかし、ペレのプレーを一目見たいがために、政府軍と反乱軍(ビアフラ軍)は「48時間の停戦」に合意したと伝えられています。

近年、歴史家たちの調査によって実際の停戦期間や裏の政治的意図については多様な検証がなされているものの、「銃声が鳴り響く戦場において、ボール一つが兵士たちに武器を置かせた」というこの逸話は、現代においてもスポーツが持ち得る「言葉を超えた調和の力」の象徴として語り継がれています。

3. 国家アイデンティティのボーダレス化と「選択される国籍」

今回のワールドカップで特に印象的だったのは、選手たちの「ルーツの多様化」と「国家帰属意識の変容」です。

代表的な例が、アスレティック・ビルバオで活躍するウィリアムズ兄弟でしょう。兄のイニャキ・ウィリアムズは両親のルーツである「ガーナ代表」を選択し、弟のニコ・ウィリアムズは自身が生まれ育った「スペイン代表」としてピッチに立ちました。同じクラブで最高の両ウィングとしてタッグを組みながら、ナショナルチームでは異なる国旗を背負う。この光景は、グローバリズムが生んだ「個人のアイデンティティの流動性」を見事に象徴しています。

かつて1998年、ジダンを擁してワールドカップを制したフランス代表は、白人・黒人・アラブ系が融合した「Black-Blanc-Beur」と称えられ、多文化共生社会の成功モデルとして称賛されました。現代においても右派勢力からのバッシングなど過酷な現実は残りますが、黒人や多国籍なルーツを持つ選手たちがナショナルチームの顔として躍動する姿は、人種や国籍の境界線を溶かしていく大きな可能性を秘めています。

一方で、ノルウェー代表のように「バイキングの末裔」としての強固な単一のアイデンティティを中心に国全体が結束する姿もまた美しく、フットボールにおける「国家のあり方」が多層化していることを示しています。

血縁や出生地に基づく従来のナショナル・アイデンティティが流動化・ボーダレス化する一方で、フットボールは人々を再び繋ぎ止める「新たな仮想共同体」を生み出す強力な触媒でもあります。

例えば、今大会で世界を驚かせた人口数十万の小国カーボベルデの躍進は、国内のみならず世界中に散らばる「ディアスポラ(海外移住者)」たちを一瞬にして強い国家の誇りのもとに再結集させました。スポーツの勝利が、地理的・歴史的に散逸した人々の間に「我々」という強固な物語を立ち上げるのです。

また、自国代表が出場していないケニアのような現場においては、人々は血縁の拘束を離れ、同胞ルーツを持つ選手や歴史的背景、あるいは純粋なフットボールのスタイルに応じて「応援する国」を自発的に選択します。これは、固定化された国家の枠組みを超えた「感情によって選び取られる新しい共同体」の発生と言えます。

国家の境界線が不透明になる現代において、人々はボールを通じて自らのアイデンティティを自由に選択し、ときに境界線を溶かし、ときに新たな連帯の物語を編み直しているのです。

1998年優勝時の多種多様なメンバー。(ARAB NEWSより引用)

第2章:ケニアの現場から見る「商業主義」と「日常」のリアル

1. 植民地主義の影とプレミアリーグの支配力

私が暮らすケニアでは、英プレミアリーグの人気が圧倒的です。「私はバルセロナ(ラ・リーガ)が好きだ」と現地の人に話すと、「で、プレミアではどこが好きなんだ?」と食い気味に聞き返されるのが日常茶飯事です。

なぜ、これほどまでにプレミアリーグが浸透しているのか? そこには、かつてイギリスの植民地であったという歴史的背景と、近代における大規模な放映権ビジネスの勝利が複合的に絡み合っています。

特にケニアの庶民の日常において、街の観戦小屋や安価な衛星放送パッケージで提供されるチャンネル枠は、需要が最も高いプレミアリーグ中心に最適化されています。深夜帯にキックオフが偏るラ・リーガに比べてケニアのゴールデンタイムに試合が集中するプレミアリーグは、圧倒的な市場シェアを握っており、庶民が日常的にラ・リーガに触れられる機会は極めて限定的になっているのが実情です。

ワールドカップの期間中、ケニアの人々がまるで「自国」であるかのようにイングランド代表を熱狂的に応援する姿には、複雑な歴史の文脈と、現代のグローバル・コンテンツが持つ威力が同居していました。

同日、バルセロナの試合もありましたが、放映されず…

2. 「公民館」としての視聴空間と、スポーツベッティング(賭博)の熱狂

ケニアにおけるフットボール観戦のスタイルは、昭和の日本を彷彿とさせます。街にテレビがなかった時代、公民館や街頭に人々が集まってプロレスや野球に熱狂したように、ケニアでは小さな小屋やパブに人々が集まり、ぎゅうぎゅう詰めになりながらプレミアリーグの画面を見つめています。

しかし、その凄まじい熱気と盛り上がりの裏側にあるのは、純粋な「フットボールへの愛」だけではありません。そこには重々しい「お金の匂い」が存在します。

それが、アフリカ全域で爆発的に拡大している「スポーツ賭博」です。SportPesaなどのモバイルベッティングアプリの普及により、若者たちは日常的に数十円〜数百円単位で試合結果に金を賭けています。まるで競馬の出走表を見るかのような眼光で画面を見つめ、一喜一憂する。ケニアの人々にとってフットボールは、娯楽であると同時に「一攫千金を狙う経済活動」でもあるのです。

さらに、街中ではアーセナル、マンチェスター・ユナイテッド、チェルシーといった伝統クラブのレプリカユニフォームが数百円で売られており、それが人々の日常着となっています。推しクラブのアイコンを背負って生きることが、貧困層も含めた人々のアイデンティティ(推し活)として生活に深く溶け込んでいます。

サカ、マドゥエケ、ドクといった黒人のスーパースターが画面上で躍動するたび、観戦小屋には爆発的な歓声が上がります。私自身が、日本人だけでなくソン・フンミンやイ・ガンインといったアジア人選手の活躍に胸を熱くするのと全く同じように、彼らもまた同胞としての誇りを彼らのプレーに重ね合わせているのかもしれません。

試合前のパブの光景

第3章:ビジネスとしての限界と「地域のハブ」としてのスタジアム

1. ケニア国内リーグの貧困と、Jリーグの100年構想

プレミアリーグへの熱狂とは対照的に、ケニアの国内トップリーグの現状は極めて厳しいものがあります。

試合が行われるのは、プロ仕様とは程遠い古びた陸上競技場のような環境です。チケット価格は300〜500ケニア・シリング(約300〜500円)程度と非常に安価で、誰にでも開かれている良さはあるものの、商業エコシステムとしては完全に破綻しています。

トップ選手の年収もごくわずかであり、到底、子供たちが憧れる職業として成立していません。夢や憧れを生み出せない構造の中では、選手層の底上げも、スポーツ業界全体の成長も望むべくもありません。

ここで際立つのが、1993年に開幕した日本の「Jリーグ」の偉業です。Jリーグは発足当時から「プロ化」と「地域密着(100年構想)」を両立させ、企業スポーツからの脱却を図り、厳格なライセンス制度と商業的エコシステムを構築しました。その結果、日本代表の強化と選手たちの海外移転、そして全国各地へのクラブ定着という莫大な成果を上げました。

商業としての健全な資金循環がなければ、スポーツのレベルも、そこで働く人間の生活も守れない──ケニアの過酷な現場は、その残酷な真実を物語っています。

ケニアトップリーグの試合会場

2. 「都市のハブ」としてのメガスタジアム──商業主義が生む光と影

世界に目を向ければ、近年のスタジアムビジネスは最高潮に達しています。FCバルセロナの「カンプ・ノウ」の改修に見られるように、最先端のスクリーン、音響設備、開閉式屋根を備えたスタジアムは、単なる「試合会場」ではなく、365日稼働する「複合型の都市ハブ」へと変貌を遂げています。

日本においても、ジャパネットグループが主導する「長崎スタジアムシティ」のように、スタジアムを中心にホテル、商業施設、オフィスを融合させ、地域経済を劇的に活性化させる試みが成功を収めています。元日本代表の李忠成氏が参画するシンガポールのクラブ事例などに見られるように、「スポーツ×都市開発」は地方創生の強力なカードとなっています。

しかし、この高度な商業主義は諸刃の剣でもあります。

今回のワールドカップで物議を醸した「30分に及ぶ長すぎるハーフタイムショー(パフォーマンス優先による選手のコンディション無視)」や、「商業的な給水タイムの広告利用」、そして「高騰し続けるチケット価格」──。

これらは、スポーツの主役である「選手」や「草の根のファン」を置き去りにし、フットボールを特定の富裕層のための娯楽へと変質させる危険性を孕んでいます。

第4章:ブラジルという奇跡──「草の根の熱狂」と「メガビジネス」の共存モデル

「日常の圧倒的な気軽さ」と「プロ選手という巨額の夢」──

この両極端なバランスを世界で最も高い次元で成立させているのが、フットボール王国・ブラジルだと思います。

ブラジルでは、貧困街(ファヴェーラ)に暮らすお金を持たない人々であっても、日常的にフットボールを観戦し、プレーしています。それでいて、フットボール選手はストリートから世界最高峰の億万長者へと駆け上がる「真のブラジルドリーム」の象徴であり続けています。なぜこの奇跡的なエコシステムが成立しているのでしょうか。

1. 「TV Globo」が守ってきた地上波放送というインフラ

欧州や日本において、放映権料の高騰による「有料配信への移行(地上波離れ)」が深刻な問題となる中、ブラジルでは長年にわたり最大手民放局「TV Globo」などが、国内リーグや州選手権、代表戦を週に何度も無料の地上波で全国放送してきました。

これにより、テレビ受像機さえあれば(あるいは街の広場や食堂のTVで)、経済的余裕のない人々であっても常にトップレベルのフットボールに触れ続けることができる「情報のバリアフリー」が担保されているのです。

2. 「ペラーダ」文化と、ボール一つの平等さ

ブラジルにおいてフットボールは「施設に行くもの」ではなく「そこにあるもの」です。 ペラーダと呼ばれるストリートフットボールの文化が街中に根付いており、専用のスパイクや綺麗な芝生のピッチがなくても、裸足で、空き地やビーチ、路上でボールを蹴る。この参入障壁の小ささこそが、貧困層も含めた圧倒的な競技人口と、しなやかな技術を育む土壌になっています。

3. 世界最大の「人財輸出産業」としてのエコシステム

そして何より、ブラジルフットボールは巨大な「選手輸出型ビジネス」として確立されています。フラメンゴやサントス、パルメイラスといった国内クラブは、街の草フットボールや下部組織から原石を発掘・育成し、10代で欧州のメガクラブへ巨額の移籍金で売却します。

このグローバルな資金環流が存在するため、国内の子供たちにとっては「フットボール一つで家族や一族の運命を劇的に変えられる」という凄まじい夢(モチベーション)がリアリティを持ちます。そしてクラブ側も、売却益を地元アカデミーの維持費や地域還元へと再投資するサイクルが回っているのです。

ブラジルのスタジアムに漂う独特の熱気──決して最先端の綺麗さや豪華設備はなくとも、人々の叫びやサンバの鼓動が充満しているあの空間は、まさに「人々の生きがいとしての日常」と「世界のトップに繋がる夢」が地続きでつながっている証拠と言えます。

選手とファンの距離が非常に近いブラジルのスタジアム。(2015年筆者が撮影)

第5章:「公園でフットボール禁止」の国が抱える歪み──日本の現在地

ブラジルの圧倒的なエコシステムやケニアの熱気と比較したとき、現代の日本が直面している課題が浮かび上がってきます。

SNS上で「公園でフットボール禁止の国がフットボール強くなれるわけないやろ」と投じられた素朴な疑問に対し、元日本代表の本田圭佑氏が「マジで、それ。」と同意を示したやり取りが大きな反響を呼びました。

日本では、放映権の高騰や有料配信化に伴って地上波放送が減少したことで、子どもたちが日常的にフットボールを「見る」機会が減っているだけではありません。それ以上に深刻なのは、過剰なルールや近隣配慮、安全管理の名のもとに、公園でのボール遊びが禁止され、日常的に「蹴る」場所さえ奪われつつある点です。管理や安全を最優先するあまり、子供たちが身近な日常で自発的にボールを追いかけ、遊ぶ空間が社会から削ぎ落とされているのです。

一方で、ケニアの街角やブラジルの路地では、綺麗なピッチなどなくても、ボロボロのボール一つで人々が集まり、誰でもいつでもフットボールに興じることができます。

商業的に発展し、インフラが整備されたはずの先進国が「ボールを蹴る場所」を失い、未発達な環境にある地域が「圧倒的なフットボールの自由」を享受している──この皮肉な対比こそ、現代フットボールが直面する「身近さと管理」のグラデーションであり、今後の日本フットボール界が向き合うべき大きな課題です。

第6章:ファスト消費社会へのアンチテーゼ──なぜフットボールは「使い捨て」られないのか

商業主義の肥大化や政治利用という影を抱えながらも、なぜフットボールはこれほどまでに力強く人々の心を捉えて離さないのでしょうか。

現代社会におけるエンターテインメントやマーケティングの多くは、次々と新たなトレンドを作り出しては古くなったものを廃棄させる「ファスト消費」の上に成り立っています。昨日の流行歌やSNS上のバズ、最新のファッションは、数か月も経てば商品価値を失い、消費し尽くされていきます。

近年のエンターテインメント界においては、音楽やアイドル文化すらも「推し活」という言葉でラベル貼りされ、商品として消費・投機される傾向が強まりました。ケニアの観戦小屋でも、安いレプリカユニフォームを着てスポーツ賭博の画面に見入る若者たちの姿があり、フットボールが消費社会の文脈に組み込まれているのは否定できない事実です。

しかし一方で、日本の「嵐」のように何十年もの間ファンから愛され、人々の人生や青春に深く寄り添い続ける音楽グループが存在するように、真に価値ある文化とは使い捨ての「商品」ではなく「時間と記憶の共有」という領域に到達します。フットボールの本質もまた、こうした一時的なファスト消費とは明確に異なるベクトルを持っています。

どれほど高度な商業的マーケティングや政治的権力が介入しようとも、フットボールという体験そのものがファンの中で使い捨てられ、忘却されることはありません

私自身、15年以上もの間、メッシという一人のフットボーラーを追い続けてきました。彼が若き天才として世界を驚かせた瞬間から、幾度となく味わった代表での失意、涙、そして2022年カタール大会での戴冠に至るまで──。

なぜフットボールや一握りの偉大なエンターテインメントは、他の商品のように「飽きられる」ことがないのでしょうか。

第一に、完成された「商品」の購入ではなく、「不可逆な時間の同期」だからです。

単発のコンテンツは完成された作品として消費されますが、フットボールのファン体験は、選手の若さ、全盛期、そして避けられない老いや引退という「不可逆な生」とともに進行します。15年間メッシを追い続けるということは、メッシの成長や葛藤に、自分自身の15年間の人生(学生時代、社会的キャリア、そして今ケニアの地に立っている現実)を重ね合わせ、同期させていく作業に他なりません。ファンが生きている限り、その物語は消費されるどころか、自身の半生と一体化して不可分な「記憶」として蓄積されていくのです。

第二に、その物語は「挫折と年月が経つほどに価値が増幅する」という、資本主義の市場原理とは真逆の熟成構造を持っている点です。

一般の工業製品やトレンド商品は、時間が経つほど型落ちとなり価値が減少します。しかしフットボールにおいては、2014年のワールドカップ決勝で敗れたメッシの失意や、代表引退を口にした苦悩という「長すぎた待望の年月」があったからこそ、最後の最後にトロフィーを掲げた瞬間の歓喜が世界中の人々の涙を誘いました。積み重ねられた「失敗」と「時間の重み」こそが、未来の勝利の価値を何倍にも跳ね上げる。これほど時間経過がコンテンツの価値を高めるエンターテインメントは他にありません。

フットボールにおいて、ファンは単なる「消費者」ではなく、同じ時代を生き、その一瞬の奇跡を目撃した「物語の共犯者」となります。

政治が国民を動員するための道具にしようと目論んでも、商業が純粋な情熱を投機の対象に変えようと画策しても、ファンと選手の間で醸成された「一生ものの神話」を奪い取ることはできません。消費社会の最先端に位置しながら、その根底では消費社会に対する最大のアンチテーゼとして機能している──これこそが、フットボールが持つ唯一無二の強度なのです。

ケニアで購入したメッシTシャツ。お気に入りです😃

終章:熱狂と憧れの「あいだ」で

フットボールを政治や商業から完全に切断することは不可能です。

政治や商業がもたらす巨大な資金や関心があるからこそ、世界最高峰の施設が作られ、選手たちはトレーニングに専念でき、子供たちは「プロ選手になりたい」という大きな夢を抱くことができます。商業主義が生み出すエネルギーは、間違いなくフットボールを世界最大のリフレインへと押し上げました。

しかし同時に、私たちはバランスを見失ってはなりません。

あまりの商業化や権利ビジネスの高騰によって、一般のファンがピッチから遠ざけられ、子どもたちが日常でボールを蹴る機会すら失ってしまうならば、それは中長期的に競技の根幹を揺るがすことになります。

誰もが泥まみれになってボールを蹴ることができる「手軽さ」と「親しみやすさ」。

相手へのリスペクトを持った公平な連帯の場。

画面の向こうのスーパースターに息をのむ「圧倒的な憧れと熱狂」。

そして、一人のヒーローと共に自らの人生を生き抜き、決して消費し尽くすことのない「生涯の物語」。

フットボールが持つ本当の価値は、その「熱狂と憧れのあいだ」に、そして「人間が共に生きる時間の深み」にこそ存在します。

分断を煽る政治の道具としてではなく、誰かを排除する金持ちの道楽でもなく。

ここケニアの小さな観戦小屋で、数百円の偽ユニフォームを着て目を輝かせる人々と肩を並べながら、私はこれからも、この愛おしくも複雑なフットボールの未来を見つめ続けていきたいと思います。


参考: